◆元旦の光景


元旦の朝からの一連の行事は、午前中にすべて終わっていた。
ようやく昇った朝日が、北海に浮かぶ旭日艦隊を茜色に染めていた。
このあたりの冬の太陽は昇ったかと思えば真横に移動してすぐにまた沈む。
あと一時間もすればこの朝日もすぐに夕日に変わってしまう、そんな北海のつかの間の昼間のことである――
原は大石の私室にいた。
部屋の主は原に背を向けて、コーヒーの抽出作業に専心している。
大石は終始無言である。
コーヒーを淹れるときはいつもそうなので、原もあえて話しかけない。
……いつ来てもごちゃごちゃしているなぁ。
原は椅子に座ったまま、雑然とした大石の部屋を興味深そうに眺めていた。
本棚に入りきらない本が何冊か横積みにされている。
しおり代りに手近にあった紙を挟んだのだろう、はがきが本の間からのぞいている。
床に無造作に置かれた箱の中にも上陸時に衝動買いをした未整理の本が入ったままだ。
汚くはないが、どこか乱雑な机にはノートが出しっぱなしになっていた。
ノートの上には見覚えのあるボールペンが載っていた。
……あれ? 探していた俺のペンじゃないか。
日本を出たころはアメリカ製のものしかなかったが、最近は日本でも生産されるようになったというボールペン。
原のボールペンは出撃前にまとめて購入しておいたアメリカ製のものである。
使い慣れた筆記具を大切にする原は、そのボールペンが見当たらないので、ここ二三日探し回っていたのである。
大石は原の手元からちょいと無断借用してそのまま使っていたのだろう。
原の視線に気がついて
「ああすまん。うっかり借りたままになっていた」
大石は悪びれずにボールペンを原に手渡した。
「あ、ありがとうございます」
一応礼を言って原はボールペンを受け取った。
……まったくいいかげんで無頓着なんだから。
少し腹立たしくはあるが、大石がずっと使っていたと思うと嬉しくもある。
原はボールペンをしばらく手のひらに載せて、大石も触れたその感触をしばらく楽しんだ。
「……もしお気に召したのなら予備にまだ何本か持ってます。お使いになりますか?」
原はこちらに背を向けてサイフォンを見守る大石に話しかけた。
「ああ、便利なものだな。インクも漏れんし」
大石が背中で答える。
「ではあとで新品をお持ちしましょう」
「いや、新品でなくていい。今のそのペンを俺にくれんか?」
カップを持って原の前を横切りながら大石が言った。
「よろしいんですか? これで」
「ああ、君が使っていたペンだからな」
……え?
原は驚いて大石の顔を見た。
大石は機嫌のよさそうな様子で、カップを温めるために入れておいた湯を備え付けの洗面台に捨てている。
……俺の気持ちを知っていて……?
どういうつもりで原がぎくりとするようなことを平気で口にするのか、大石の真意はなんとも測りがたい。
「……これでよろしいのでしたらお使いください」
少し硬くなった声で言うと、原はボールペンをテーブルの上にそっと置いた。
「ああ、すまんな。ありがとう」
大石は洗面台から振り向くと、にこっと笑って礼を言った。
原が拍子抜けするような気軽い調子だった。
……やっぱり深い意味はないらしい。長官は天然の人たらしだからなぁ……。
大石はごく自然に芝居がかったせりふを口にできる、日本人には珍しいタイプである。
だからこそ、外国向けの記者会見などにはうってつけの人物なのだが。
原は大石にわからぬよう、小さなため息をついた。


大石は楽しげにコーヒーカップをテーブルの上に並べている。
瀟洒な年代物のダービーのカップだ。
大石の一番のお気に入りのカップで、私室でしか使用しない。
熱いコーヒーが大石の手でそのカップに注がれる。
最高級のブルーマウンテンの高貴な香りが部屋に漂った。
「陛下のブルーマウンテンだ」
大石が湯気を立てるカップを手に取って原に微笑みかける。
「今年もよろしく頼む、参謀長」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「ふふ、今年初めてのコーヒーだな」
「ええ……いただきます」
カップに手を伸ばす原を大石は笑みを湛えてじっと見守る。
そんな大石の視線が原にはなんともまぶしく感じられる。
……わからん、俺には。
原はコーヒーに口をつけた。
狭い大石の私室でこうして向かい合って飲むコーヒーは格別な味がする。
……どういうつもりなんだろうな、長官は。
大石の私室では、原がいつもより無口になるのに大石は気づいているだろうか……。


参謀室では参謀たちがポーカーに興じていた。
金銭を賭けては差し障りがあるので、彼らはコンビーフの缶をやり取りしていた。
磯貝は勝負事は苦手だった。
とくにポーカーは一番の苦手だった。
はったりをかます「ブラフ」は彼の性格に馴染まない上に、やったとしても表情からすぐばれることは磯貝本人も知っていた。
それで正直にカードの手だけに頼ろうとするが、どんどんレイズされると気の弱い磯貝はツーペアでも簡単に降りてしまう。
つまり、大きくは負けないが決して勝てない。
これでは勝負していて面白いわけがない。
磯貝は頭をかきながら、椅子を立った。
「もうやめですか? 磯貝さん」
「あはは……負け分を清算しておいてください」
もともとお付き合いで加わったゲームだ。
磯貝はギャラリーに席を譲ると、そっと部屋を抜け出した。
通路の奥の士官次室からは無礼講の歌声や笑い声が聞こえてくる。
(あっちのほうが楽しそうだなぁ)
しかし若い少・中尉たちの中に、司令部のしかも大佐の磯貝が割り込んでは興を削ぐことになるだろう。
(そうだ、夕食後はお酒が解禁になるから、また大変なことになる。今のうちに手紙でも書いておこうかな)
そう思って私室に帰ろうとしたところ……。
「いやぁ、お暇そうですなぁ」
ガシッと彼の腕を掴んだ人物がいる。
柔道着を着た木島だった。
あいかわらずむさくるしい無精ひげをはやして、にたにたと上機嫌で笑っている。
「これから道場で初稽古でして。新春恒例柔道部乱取り大会、わっはっは」
磯貝の顔がこわばった。
「飛び入り歓迎ですんで、わっはっは」
「え、そんな、私はちょっと」
後ずさる磯貝を、逃がすものかと木島はしっかりと彼の肩に手を回す。
「なーに遠慮してんです、一年の計は元旦にあり。今年は私がみっちり稽古をつけてあげますって。さっ、行きましょう!」
「ちょっと木島さんっ、なんかお酒臭いですよっ、飲んでんですか」
「なーに、道場のお神酒のお下がり、お神酒ですよ、わっはっは」
磯貝は木島に引きずられていった。