◆能面〜続き


……ああ俺って意気地なしだ。
帰りの水上機の座席で磯貝は意気消沈していた。
原を目の前でけなされて、反論の一つも出来なかった自分がたまらなく嫌だった。
遊撃艦隊の面々も日頃の鬱憤を吐き出しているだけで、みんなたわいもないそしり口にすぎない……そう磯貝の理性はちゃんと事態を認識していた。
あの場で反論などしたら、場は白けてしまっただろう。
それにベテラン艦長や大先輩である叩き上げ司令たちに、若輩の自分が偉そうに口を挟むのも、目上を立てる気質の磯貝にはできかねることだった。
だからといって……。
磯貝の唇が泣き出しそうにへの字になった。
俺ってほんと意気地なしだ。

ほどなく磯貝は日本武尊に帰り着いた。
副直将校の出迎えを受けたときも、磯貝はしょんぼり肩を落としたままだった。
「どうかされたんですか? お腹でも痛いんですか?」
副直将校が怪訝そうに磯貝の顔を覗き込んだ。
「ううん、大丈夫だよ……」
心配してくれたその若い中尉に力なく笑って見せて、彼は昇降口に姿を消した。
気は重いが、無事「根回し」の任を果たしたことを、原に報告に行かなくてはならない。
《虎狼》での件が心に引っかかっていて、磯貝はまだ原の顔を真っ直ぐ見られないような心持だった。
ところが間の悪いことに、彼は参謀長室に向かう途中で原にばったり出くわしてしまった。
気持ちの切り替えがまだ出来ていなかった磯貝は、立ち止まるとうろたえ気味に一礼した。
「ああ、《虎狼》へ行ってきたんだったな」
「ちょうどお部屋にご報告に行く途中でした」
「うん、で、上手くいったか?」
「は……一応は」
「ま、部屋で聞こうか」
原は磯貝を促すと、先に立って歩き出した。
気まずい気持ちを引きずったまま、磯貝は押し黙ってその後ろについていった。
ちょうどそのとき、彼らの前を横切ろうとした主計科の下士官がふたりに気づき、さっと敬礼をして寄越した。
「……」
原は心もち顎を引き、挙手している下士官に頷いてみせた。
下士官は立ち去り、原も無表情のまま視線を元に戻した。
そんな原の一連の動作を、磯貝はじっと心配そうに見守っていた。
「参謀長……」
意を決したように磯貝が話しかけた。
「なんだ?」
「あのですね、笑ってみてください」
「なに?」
原が振り向くと磯貝が真剣な表情でじっと彼の口もとをみつめていた。
「ちょっとでいいですから、にこっと」
「ふん、可笑しい事もないのに笑えるか、バカ」
「じゃせめて、表情を柔らかく」
「なにを言いたいんだ、おまえ」
原は冷たく目を光らせると居丈高に磯貝を睨んでみせた。
原の怒りモードの前兆である低い声に、磯貝はとたんにあたふたと浮き足立つ。
「あの、今の答礼なんかですね、いえ今に限らず参謀長の答礼はどうもそっけなさすぎて。その、格式ばるとかじゃなくてですね、もうちょっとお顔を柔らかくされれば誰も能面……あ」
浮き足立つとぽろりとよけいな言葉を口に出してしまうのが小心な磯貝の悪い癖である。
「能面?」
「あう、その、ちょっと気になっていたんです、答礼の表情ひとつで受ける感じも違うんじゃないかと」
原に睨み据えられて、彼はもう気もそぞろだった。
言いつけ口になってはいけないと必死にあせるが、どう取り繕っても勘の鋭い原の前では無駄である。
磯貝は背中に冷や汗を感じながら、泣きそうな顔で俯くしかなかった。
「ふん……いいか、俺は参謀長で長官のスタッフなんだ。周りに愛想良くしてどうする……」
申し訳なさそうに縮こまる磯貝に原はどう思ったのか、苦い顔つきで一旦言葉を切った。
「誰になにを言われたかは知らん。だが余計なことを心配する暇があったら、とっとと仕事にかかれ。どうせ修正案を引き受けてあるんだろう、あるならさっさと文書にしてもってこい!」
「は、はいっ!」
返事を残してあたふたと参謀室へ逃げ込んでいく磯貝の後姿に、原はチッと小さく舌打ちをするとまた歩き出した。
自分の人気のなさは承知の上だった。
……参謀長というのは一種の憎まれ役なんだ。おまえにはまだわかってないな。長官を矢面に出さず、言いにくいことはすべて俺の口から言う。愛想笑いなんかしてられるか。第一、それは俺の柄じゃない……。
職務第一。
それに人にはそれぞれ向き不向きがある。
原は原なりに参謀長の役を精一杯演じているのだ。
能面と疎んじられようが、それで艦隊内に睨みを利かせられるのならば本望だった。
もとより社交的な気質ではないが、職務を重んじるあまり、ことさらに厳しい石頭の参謀長の仮面を進んで被り続けて今日までやってきたのだ。
……俺もおまえのように自然体でやっていけたら楽なんだが、そうもいくまい……。
原には公私とも裏表のない磯貝が今更ながら羨ましく思えた。