◆悪寒


午後から少し寒気がする。
二三日前から風邪気味だったのが、今日になって急に体調が悪くなってきた。
人と口を聞くのも億劫だし、食欲もない。
夕食の席でも原は不味そうに煮物を咀嚼していた。
いつもなら好物のかぶらの煮物も今日は味がさっぱりしない。
原は箸を置いてしまった。
「あ、ぎんなん」
斜め前の席で磯貝がうれしそうにひとりごちた。
「あとはユリ根か」
磯貝は茶碗蒸しの碗を箸でつつきまわしている。
どうも磯貝は食卓での行儀が悪い。
……よくこれで海軍士官と名乗れたものだ。
原は不機嫌そうにちらりと磯貝を睨む。
「へ? 銀杏が好きなんですか?」
磯貝の隣に座っていた木島が磯貝の手元を覗き込んだ。
「ええ、好物です」
磯貝がこくっとうなずく。
「銀杏、銀杏と……」
まだ茶碗蒸しに手をつけていなかった木島も蒸し碗の中身を箸でぐちゃぐちゃかき回しだした。
それを見て原の顔がまたしかめられた。
……この男の行儀も、将校と名乗れるものじゃない。
「おっ、あった!」
木島の箸にきれいな緑の銀杏が挟まれていた。
「じゃ、こいつは進呈しときましょう」
そのまま、木島は磯貝の蒸し碗の中に銀杏をポトンと落とした。
「あ、いいんですか」
「いいですよ、べつに銀杏なんてあってもなくても」
ずずっと残りの茶碗蒸しを一口に啜りこみながら、木島が答えた。
原の苦々しげな顔などどこ吹く風だ。
「たしかに懐かしいですなぁ、銀杏。日本の秋の味覚なり、と」
そのとなりで早水も同じように銀杏をほじくり出していた。
「ほい出た、銀杏」
蒸し碗のふたに銀杏を乗せると、隣の木島に回す。
「よかったねぇ、磯貝さん。ほれ銀杏」
木島はふたの銀杏をまた磯貝の碗に落としてやる。
「あ、そんな、いいのに」
磯貝が口ごもる。
「好物なんでしょ?」
「はい……すみません、じゃ、せっかくなんで頂きます……」
恥ずかしかったが、つきかえすわけにもいかない。
磯貝はこそこそと小声で礼を言った。
「おおい、みんな銀杏を供出してくれ。磯貝さんの好物だ」
調子に乗った早水が末席に向かって呼びかけた。
「わっ、よしてくださいよ」
赤くなって恥ずかしがる磯貝に、皆はかえって面白がって各々の碗から銀杏をほじくり出した。
幕僚・科長席を空の湯飲みが回されて、皆がクスクス笑いながらその中に銀杏をほうりこんでいく。
今日は大石はレイキャビクでの会議に出席しており、夕食の席に不在であった。
大石が不在であればこその、どこか気楽な雰囲気が座の空気を支配していた。
テーブルを一周して銀杏でいっぱいになった湯飲みが磯貝の前に置かれた。
上席の富森までが笑って自分の碗の銀杏を湯飲みの一番上に箸で乗せたので、テーブルはどっと沸いた。
……まったく艦長までが一緒になって。
恐縮して頭を掻いている磯貝を見ながら、原は呆れる思いだった。
とにかく食欲もないので部屋に帰ろうと席を立ちかけたとき、続けざまに原はくしゃみをした。
「……失礼した。風邪気味なのでお先に」
そう言いおいて原は席を立った。

ぞくぞくと悪寒がする。
原は参謀長室の執務机の前で身を震わせた。
書類の字を見つめていると眼球の奥が痛い。
……熱が出てきたかな?
原は自分の手を額に当ててみる。
熱いのか冷たいのかよくわからない。
ただ、寒気がして気分が悪い。
……とにかくこれだけは片付けておかないと。
気合を入れなおして書類のページをめくったとき、遠慮がちなノックの音がした。
「入れ」
……誰だ、今ごろ。
原は訝しげに視線をドアに向けた。
「失礼します」
顔をのぞかせたのは磯貝であった。
「なんだ?」
「あの、お具合はいかがですか?」
「なに?」
「あの、今日はなんだかだるそうになさってましたし、夕食もほとんど召し上がらなかったです」
「ただの風邪だ」
心配そうに自分を見つめる磯貝に、原はつっけんどんに答える。
思い切り不機嫌な態度だ。
「どうしてお休みにならないのですか?」
不機嫌な原を恐れることなく、つかつかと磯貝が原の机の前に歩み寄った。
「お顔が辛そうですよ。もう休まれたほうがいいです」
原の前ではびくびくし通しの磯貝が、参謀長室まで来て生意気に意見をするなんて。
原はあまりに意外なことで、とっさに言葉が出ず、磯貝の大真面目な顔を黙って見ていた。
「もう仕事はおやめください」
机の上から磯貝は書類の束をぱっと取り上げた。
「何をする!」
原は気色ばんだ。
……こいつ、いったいどうしたんだ? 
慮外な態度に腹を立てながらも、原はいつもとは違う磯貝の態度をいぶかしんでいた。
原の怒りにも磯貝は動じることなく、取り上げた上司の機密書類にパラパラと目を通している。
「磯貝! 貴様、どういうつもりだ!」
越権行為もはなはだしい。
当然、原は色をなして磯貝を叱りつけた。
「これは通達の下書きですね。後は清書だけなんでしょ? 私がやっておきます」
磯貝は原の叱責にも落ち着いて、努めて冷静に答えた。
「勝手なことをするな!」
「明日の朝一番にお見せしますから、変更するところがあればそのときにおっしゃってください。その場で私がまた書き直します」
怒鳴られても平然として、毅然と話す磯貝を、原は狐につままれたような顔で見た。
……いったいどうなってるんだ?
「涙目になられているじゃありませんか。熱がある証拠です。放っておくと熱が下がりませんよ」
呆然としている原の目をしっかりと見返して、磯貝はそんなことまで言う。
磯貝の二重の大きな目は真剣で澄んでいた。
……酒が入っているわけでもなさそうだし。
「従兵! 従兵はいるか! ……公室は今夜はもう仕舞ってよろしい。片付けて消灯するように」
付属の廊室との仕切りから従兵を呼びつけると、磯貝はてきぱきと指図をする。
「さっ、私室へお移り願います。早くベッドに入ってください」
がしっと磯貝の腕に抱きかかえられて、有無を言わさずに隣の私室に原は連れて行かれた。
原を私室に送り届けてドアを閉めると、磯貝は書類を片手にへなへなとドアの横の壁にもたれかかった。
「ああー、怖かったよぉ……」
どうやら苦手の原を相手にした磯貝の一世一代の大芝居だったようである。