◆不出来な弟


原の磯貝への複雑な気持ちはまだ未整理のままだった。
どうしようもなく神経に障る鈍いやつ。
そのくせ純粋でめっぽうかわいげのある素直なやつ。
事務処理能力はヨレヨレだが、どこか見所がありそうななさそうな、よくわからないやつ。
最初、仕事上の迷惑はひたすら我慢することにして、できるだけ距離を置いて自分の神経を休めようとした原ではあった。
しかし状況がそれを許さない。
距離を置きたくても
「出来の悪い弟と思って面倒を見てやってくれ」
などと大石に磯貝を押し付けられてしまうと、そう冷たい態度も取っていられない。
いらいらしながらでも磯貝の面倒を見ていると、原にだって磯貝に情が湧いてきそうなものだが
「そうじゃないだろ、磯貝」
「もたもたしないでくれ、磯貝」
「いいか、もう一度説明するぞ」
「もういい! 俺がやる!」
こんな調子で一日中彼と顔をつき合わせていると、もうウンザリしてしまう。
たとえ徹夜になったとしても、自分ひとりで全部仕事を片付けたほうがうんとましだ。
自分の仕事の後に磯貝の仕事のチェックをしないと不安で仕方がないから、実質仕事は倍になったようなものだ。
一方磯貝は原に嫌味を言われようが馬鹿と怒鳴られようが、目に涙をためながら健気に彼の言いつけを聞こうとする。
原が仕事の後で
「今日はおまえもよく頑張ったな」
と一言、声をかけてやればそれだけで彼は大きな目を潤ませて嬉しそうに原を見る。
(ああ、なんだか俺は犬を飼っているような気分だ)
原はひとりになるとぐったりとしてため息をつきたくなる。
こんな愚痴を吐き出せる相手は原にはいない。
司令部員たちは階級の上下に関わらず、みな温和な磯貝を好いている。
(庇ってやるのはいいが、面倒を俺ばかりに押し付けないでくれ)
そんな悲鳴を上げたくもなる。

そんなストレスが積もり積もっていたのだろう。
それに大掛かりな作戦前ということもあって、ただでさえ忙しい原の気も立っていた。
そこへ磯貝がとんでもないミスを仕出かしたのだ。
(……おまえなんか辞めてしまえッ! と怒鳴って一発こいつを殴れたら)
原は怒りで青白くなった顔で磯貝を睨みながらそう思った。
もちろん気位の高い原にそんな蛮行はできやしない。
目の前にはオドオドと上目遣いで原を見る磯貝が立っている。
(こいつは自分がどれほどのミスをしたのか、その重大さもよくわかってないらしい)
原の怒りはそのへんが鈍い磯貝への生理的な嫌悪感にすりかわっていく。
「磯貝……」
原の怒りの沈殿した冷ややかな声が参謀室に響いた。
ほかの参謀たちは皆どうなることかと息をひそめて原を見ている。
原は手にした分厚い資料を机にバシッと叩きつけた。
その鋭い音に部屋中のものが身を竦めた。
「おまえみたいな能無しは俺の前に顔を出すな!」
「は、申し訳ありません!」
磯貝はかつてない原の剣幕に、さすがに顔面を引きつらせて低頭している。
原は忌々しげに舌打ちをすると、頭を下げる磯貝に冷たく背を向けた。
磯貝の気持ちなどどうでもよかった。
彼を叱る時間も気力も惜しかった。
これから彼のミスの後始末に原自身がてんてこ舞いしなくてはならないのだ。
(おまえってやつは俺にどれだけ迷惑をかけたら気が済むんだ!)
すべての問題の元凶である磯貝に目の前をちょろちょろされると、ほとんど残っていない彼の忍耐力が持ちそうもない、そう言いたかっただけである。

作戦は無事終了し、旭日艦隊は勝利を収めた。
日本武尊にもほっとした空気が広がり乗組員も日常の業務に戻りつつあった。
磯貝はあの日から原を避けていた。
彼の顔を見るとこそこそと物陰に隠れ俯いている。
お互い作戦終了後は本国向けの報告書作りで忙しい。
原のほうもわざわざそんなやつに構ってやることはないと無視し続けていた。
多少大人気ない叱り方をしたと気は咎めていたが、だからと言ってこちらから下手に出ようとは思わなかった。
……これに懲りて少しは慎重に仕事をしろ。
そう強いて強気に考えていた。
とはいうものの、原の胸には後味の悪い思いが拭いきれずに残っていた。
そして一抹の寂しさが原の気持ちをさらに苦くしていたのだった。

その日の夕食は作戦終了の慰労会を兼ねていた。
費用は自分持ちだがフランス料理のフルコースが供せられる。
上席の大石が簡単な挨拶をしシャンパンの乾杯で会は始まった。
磯貝は航海長と砲術長の間におとなしく座っている。
この潮気の染み込んだふたりの大佐は日頃から磯貝をかわいがっている。
(……ふん、可愛げのあるやつ、か)
原は磯貝を目の端で一瞥するともう目もくれなかった。

慰労会は和やかに終了した。
幹部たちは笑いさざめきながら三々五々自室に引き上げていく。
原は少し頭が痛かった。
赤ワインが体に合わなかったのかもしれない。
もとより酒類はあまり好きでない原である。
いつもなら大石のコーヒーの誘いを喜んで受けるのだが、今日はもう人と付き合うのも億劫だった。
「気分がよくないので早めに寝ます」
そう言って原は大石の誘いを断った。
「そうか、それはよくない。大事にしてくれ」
大石はそういたわって原を解放してくれたが、その目には不審そうな色があった。
こういうときの大石は執拗に詮索してくるのを原は経験上知っている。
「失礼します」
原は早々に会話を切り上げると早足で大石から離れた。
(悪気はないんだが、長官は強引で人の気持ちなんかお構いなしだからな)
他の事でなら大石に話を聞いてもらうのもいいかもしれないが、こと磯貝に関しては大石に触れてほしくなかった。
(……気にしているつもりはないんだが、あんなやつのこと)
原は自分の気持ちに素直になりたくなかった。
磯貝のことを気に病んでいることを認めたくなかった。
ふと原は甲板に出てみたくなった。
夜の海を見て冷たい潮風にあたれば、すべてがばかばかしく思えるようになるかもしれない。
もし夜風にあたって頭痛がこれ以上ひどくなれば、さっさとアスピリンを飲んで、毛布を被って寝てしまえばいい。