◆プルシャンブルーの影


褐色の丘陵に沈みゆく夕日が最後の光を投げかけた。
一瞬、丘が桃色に燃える。
鮮やかな色彩。
燃えるような輝き。
……ああ、日が沈む。
司令部の廊下に出て、前原は茜色に染まった夕映えの丘を眺めていた。
日が地平に沈んでも、日脚の伸びた初夏の空はまだまだ明るい。
しかし夕日を受けていた丘陵はさっきまでの輝きが嘘のように消え、すっかり色彩を失ってしまっていた。
沈みゆく夕日が見せた幻とわかってはいても、あっけなく失われた色彩が前原にはわびしく感じられた。
あの鮮やかな色をせめて心の中にとどめておきたかった。
……クリムソンレーキをほんの少し。
窓枠に寄りかかりながら、前原は目の前の旅順の夕景を心の中でスケッチしていた。
柔らかな鉛筆でざっくりと陰影をつけた下絵に、水彩を淡く重ねただけの、簡易なスケッチ。
夕日の光の効果をあれこれと前原は思案していた。
……ローズマダーを最後にほんのりと効かせるんだ……。
心の中に出来上がりつつあるスケッチに重ねるように、前原は一人の男の後姿を思い浮かべていた。
峻厳な真っ直ぐな背中。
骨ばったがっしりした肩が目立つ富森の後姿を……。


要港司令部庁舎はロシア統治時代にはステッセル将軍の官邸であった建物である。
天井が高く、アーチ型の窓は瀟洒で貴族的であった。
その窓に寄りかかり、前原はぼんやり旅順の夕空を眺めていた。
すぐ先に見える建物は、戦利記念品陳列館。
元のロシア軍下士官集会所である。
そしてその向こうの丘が白銀山。
白銀山を貫くトンネルを抜けると、大連へ伸びる旅大道路に出る。
前原は司令部で、大連に出かけた司令官と先任副官の帰りを待っているところだった。
日暮れまでには戻ると聞いていたのに、まだ戻らない。
時間厳守なはずの海軍も、大陸に来るとずいぶんと大まかになるようだ。
郷に入っては郷に従え……。
そういうわけではないのだが、現地の時間の流れにだんだんと体が慣らされてしまうのだろうか。
……いくらなんでも、もう帰ってくるだろう。
前原はちらりと左腕の時計に目をやった。
とうに退庁時刻を過ぎていたが、他の部員は司令部内の自分の机でそれぞれ仕事をしながら、司令官の帰りを待っている。
だが前原は窓越しの夕空に仕事を続ける気を失ってしまった。
ふらふらと席を立って部屋の外に出ると、彼は廊下の窓から夕焼けの空をぼんやりと眺めて時間を過ごしていた。
サボり癖のある前原副官……司令部内ではそういう人物評が出来上がっている。
いまさら彼の行動に誰も驚かない。
おっとりとしてやさしげな物腰の彼に、司令部の人間は誰もが好意的だった。
多少ルーズであろうとも、この旅順では前原の少々の怠慢は、彼の人柄と美貌に免じて大目に見られていたのである。


雲の赤みがだんだんと退いていく。
日は完全に没しきった。
初夏の日没の余韻は長い。
雲の彩りは消えても、天空の残照はまだまだ続く。
光を失いつつある空は、ターコイズブルー。
そして色味を消して艶をなくした、プルシャンブルーの陰影。
前原は心の中でスケッチを続けていた。
……空の比率を多めにとって。
絵が感傷に堕ちても構わなかった。
……そして天蓋のような空の下に一人立つ男をここに描こう。富森さん、あなたを。


どうしても富森の心に手をかけることができない。
そんな苛立ちと疲れが前原にあった。
やさしいいたわりと思いやりで彼を真綿のように包んでくれるが、けっして前原の心にじかに触れようとしない富森。
……なぜ。
真剣な想いを瞳にあらわにして迫っても、富森は穏やかに彼を見つめ返すだけだった。
その眼差しは前原を見ているようで、どこか遠くを見ているように思えた。
……俺だって富森さんに大石教官を重ねていた……文句は言えない。
だけど今は違う。
あなたをあなたとして、真剣に見つめているのに、あなたは……。
なぜ。
俺の目を見て欲しい。
俺は本気だ。
あなたを偽る気持ちは微塵もない。
信じて欲しい、今はあなたの心だけが欲しい、他の誰かではなく富森さん、あなたが。


もどかしかった。
富森の心に触れたかった。
……俺をそんなに大切にしてくれなくていい。
傷ついてもいい、血まみれになってもいい。
あなたの生の感情に、あなたに直接ぶつかりたいんだ……。
もどかしい気持ちをぶつけるようにして、乱暴にのしかかって激しいキスを仕掛けても、富森は黙って受けとめるだけだった。
見つめ返す瞳はあいかわらず穏やかで、波風の立たぬ凪いだ海のようだった。
前原が小石を一つや二つ投げ込んだところで、波紋はすぐに収まり……もとの静けさを取り戻す。
穏やかな夜の海……静かな暗い波間に身を投げるように、前原は疲れきって富森の胸に倒れ伏すのだった。


俺はこの前、どうかしていた。
感情に押さえがきかなくて、あなたの冷たさを責めた。
俺の言いがかりに近い恨み言をあなたは困ったような表情でじっと聞いていた。
我慢強くじっと俺の言葉に耐えていた。
俺は泣いた。
泣くしかとりえのない女のように泣いてみせた。
恥も外聞もなく、涙を流してかきくどいた。
なぜ愛してくれないんだと。
(どうしてそんなことを言うんです? 愛してますよ……)
悲しげにあの人は微笑んで見せた……。
(どうして欲しいんです? 私はあなたの言いなりなのに)
俺をそっと包み込むように抱きしめて、あなたは優しくあやすように俺を撫でてくれる。
遠慮なら要らない。
抱き合っていてもあなたは……ひどく遠慮がちでどこかよそよそしい。
(……あなたは気性の激しい人だ……でも私は違う……)
俺の涙に、寂しそうにあの人は目を閉じた。
(申し訳ない……)
なぜ謝るんです?
俺は富森さんの手を振り払った。
いっそのこと、激しい言葉を投げつけて、あなたも自分も傷つけてみたかった。
でも、そんなことをできるはずもなく。
富森さんの誠意と情けは十分すぎるほど受けている。
無理を言ってみただけだ……。
俺は唇を噛んで泣いていた。
情けない涙だ。
富森さんは何も言わず、俺をまたやさしく抱き寄せてくれる。
こんな情けない俺を。
……呆れたでしょう? 嫌気が……差したでしょう?
俺の声はかすれて哀れっぽかった。
自分で自分が、また嫌になった。
(いいえ……そんなことはけっして)
耳元で囁かれても、どこか遠くから聞こえてくるような、不思議な富森さんの声。
あなたの魂がどこか遠く離れたところにあるせいなのだろうか?
俺は不安になって目を開けて富森さんを見た。
誠意と情に満ちた穏やかな目が、俺をじっと見つめていた。
……富森さん、すみません。こんな、どうかしている。
(いいんですよ)
遠い声が応えて、冷たい唇が俺の瞼にそっと触れた。
あなたは情深い人だ、俺を見捨てたりはしまい。
どこかそんなずるい計算が俺にないといえば嘘になる。
でも俺は不安だった。
あなたが俺をおいて去ってしまう日が来るんじゃないかと。
俺は、あなたにまたしがみついた。
……あなたが好きだ、富森さん……!
あなたの腕の中に身を投げかけて、俺は静かな暗い波間にゆっくりと沈んでいく。
そんな俺をやさしく受け入れてくれる、あなたの沈黙。
俺の背や髪を撫でる、遠慮がちなあなたのてのひらの愛撫……やさしいが穏やかすぎるあなたの愛情表現。
俺もおとなしくあなたにじっと抱かれていよう。
俺よりも体温の低い肌に、俺の肌のぬくもりがじんわりと移っていくのを感じながら。
あなたを無理に追うことさえしなければ、いいんだ。
俺がひとりで夜の海に漂っていればいい。


刻一刻と空の光が失われていく。
丘は夕闇に沈みゆく。
こんな空には、強くて真っ直ぐな背の、影の濃いシルエットが似つかわしい。
……富森さん、あなたが。
前原の目は夕闇の景色の中に富森の幻を追っていた。
どこか遠い、触れることのできぬ富森の心に諦めを感じながら。
……影を描くには、水をたっぷり含ませたリセーブルの筆がいい。
前原はプルシャンの人影を黄昏の空に重ねる。
残照の地平に溶け込むような、プルシャンブルーの孤独な陰影を……。