◆旅順
照和9年、旅順。
富森少佐が旅順に来たのは十一月であったが何かと忙しく、こうしてゆっくり街を観光できるのは今日が初めてだった。
富森正因少佐、旅順要港部所属の駆逐艦「藤」の艦長である。
旅順の街はアカシアの街路樹が美しい。
しかし今は冬。
アカシアは寒々とした枝を並べ、街には凍てついた澄んだ空気がぴいんと張り詰めていた。
旅順といえば日露戦争の激戦地として有名である。
今よりたった三十年前のことなのに、日露戦争という語感のなんと古めかしいことであろう。
戦勝祝賀の花電車や提灯行列の賑やかさは当時十歳だった富森少年もよく憶えていた。
轟く砲音飛びくる弾丸 荒波洗うデッキの上に
闇を貫く中佐の叫び 杉野はいずこ杉野は居ずや......「広瀬中佐」
庭に一本(ひともと)棗(なつめ)の木 弾丸あともいちじるく
崩れ残れる民屋(みんおく)に 今ぞ相見る二将軍 ......「水師営の会見」
人口に膾炙した日露戦争を題材にした唱歌だ。
その旅順港、二〇三高地、水師営……。
富森もできれば折を見てひと通り戦跡を見ておきたく思っていた。
さきほどから富森が何度も顔を見かけている青年がいる。
富森と同様、旅順観光なのだろうが――優しい顔立ちのすらりとした姿のいい青年だ。
青年はひとりロシア軍の堡塁の前に立ち、その弾痕だらけの壁を見つめていた。
何を思うのか、堅いコンクリートの壁に手を触れ静かに佇んでいる。
壁のそばには三十年の月日の間に成長したのだろう、一本の細い木が白茶けた枝を伸ばしていた。
(ここで戦死した兵の遺児かも知れないな……いや、それにしては若すぎるか)
富森が堡塁内部の見学を終え、また外壕に戻ったときにはその青年の姿はもうなかった。
富森は堡塁を後にし、背後の小高い丘を登りだした。
道らしい道はない。
所々に塹壕の跡らしきものが残る。
とげの生えた低い潅木に悩まされながらも富森は黙々と頂上を目指して登り続けた。
半時間ほどかかっただろうか。
富森はついに丘の上に立った。
ぽつんと石碑が建てられている。
丘からは二〇三高地がよく見えた。
総攻撃の折にはこの丘が一面日本兵の死体で埋め尽くされたという……。
富森は感慨深かった。
コトン、と石碑の裏から物音がした。
「誰かいるのか!」
富森は鋭く誰何した。
石碑の後ろから若い男が顔をのぞかせた。
「君はさっきの……」
堡塁で見かけたあの青年だった。
「すみません、驚かすつもりはなかったのですが」
優しい顔立ちに相応しい、おっとりとした口のききかただった。
富森はその声と話し方に好感を持った。
「いや、こちらこそ失礼しました」
自分も非礼を詫びると富森は青年に微笑みかけた。
「どうしてまた、こんなところへ?」
「……たぶん、あなたと同じ理由だと思います……自分の目で見てみたかったのです、この丘を」
青年は富森の問いに微笑みながら答えた。
少しはにかんだような微笑だ。
「そうでしたか……あなたも髪が長めのところを見るとどうやらご同業ですね」
富森がおかしそうに笑う。
「ええ、たぶん。堡塁でお会いしたときからそうじゃないかと思っていました。歩き方がどうも軍隊調でしたし、目が……」
案外、話し好きで人懐こいのか、青年は腰掛けていた石碑からぽんと降りると富森のそばに来た。
「目つきが悪かったのですか? 私は」
富森が聞き返す。
「そんな……。でも軍人だとわかりました」
青年は弱ったように笑ってみせる。
富森の戦跡を見る厳しい目が、そしてなんとなく印象が、彼のよく知っている人に似ていたのだ。
彼の大切なあの人に。
「ここからは旅順港は見えませんね……あたりまえですが」
富森が枯れ草と潅木に覆われた荒野を見下ろしてつぶやく。
もしもこの丘から旅順港が見下ろせたのなら、苦労して二〇三高地を落とす必要はなかっただろう。
旅順港にひそむロシア太平洋艦隊の位置を測定できる二〇三高地……砲撃観測地の占拠が旅順攻略の要だったからである。
「二〇三高地へは?」
行くのですか? と青年が富森に目顔で尋ねる。
「そうですなぁ……」
富森はズボンに付いていた草の実や枯葉を手で払いながら思案する。
「ここまでの藪漕ぎでだいぶ疲れましたからなぁ」
そう言って彼は苦笑いをして青年の顔を見た。
青年はニコニコとして疲れた様子はまるでない。
(若いとは結構なことだ。二十四、五というところかな? 兵ではない……中尉か大尉か。要港部員だろうか?)
「あなたは行かれるのですか? ええと……」
「前原です。旅順要港部副官です……先週着任したばかりの新米ですが」
「ほう、そうでしたか……申し遅れました、富森です」
「ああ! 《藤》艦長の富森少佐ですね。お名前は書類で……」
拝見しています、と前原青年は目で笑う。
ずいぶんと人懐こい。
「艦長。せっかくだから行きませんか? まだ日は高いんですし」
「そうですなぁ」
「行きましょう! 旅順港をぜひ上から見下ろしてみたいものです」
富森の手を引かんばかりに前原が勧める。
「たしかに旅要所属で二〇三高地を知らなければ、もぐり扱いされかねませんな。では参りましょうか」
「ああよかった!」
前原は心から嬉しそうな顔をした。
「ひとりきりでは寂しくてやりきれなく思っていたところなんです……この地に眠る日露の将兵が呼ぶんでしょうかね……」
遠くを見るような目で前原はつぶやいた。
軍人には珍しい芸術家気質なのだろう……不思議な青年だ。
富森は何も答えずに微笑んだ。