◆旅順〜続き


さすがに二〇三高地には一応は道がある。
藪漕ぎをする必要はない。
三十年前、この山は両軍の砲撃で草木がなくなってしまったという。
今は棘だらけのひねこびた潅木のほかに、まだ跨げそうな大きさではあったが実生の松もあちこちに根を張っていた。
塹壕の跡には落ち葉が積もっていてうっかりすると踏み抜いてしまう。
「やあ……しまった」
前原が塹壕の落ち葉にまみれて情けなさそうに笑った。
「あっと……その木はウルシでしょう。おやめなさい」
前原が何気なく掴もうとした枝を見て富森が止めた。
「手袋ごしでも用心するに越したことはないでしょう」
富森は片手を前原に差し伸べた。
ざっ……!
勢いをつけて富森は片手で前原を塹壕の外に引き上げた。
皮手袋をした強い腕。
「怪我はないですね?」
空いた片腕で前原を抱きとめた富森にふと前原はデジャビュを感じてしまう。
(こんなことが前にもあった……)
抱きとめてくれた富森の外套の腕を前原はぎゅっと握った。
「?」
訝しそうに富森が前原の顔を見る。
富森のその通った鼻筋、一文字の唇……そして何より鋭い目。
(似ている……どこか似ている)
顔の造作というより雰囲気が似ているのだ。
まるで遠い時代の人間に出会ったような違和感がある。
使命を悟ったかのような捨て身の厳しさを秘めたその目。
(彼もそうなのか? もしかして前世の記憶を持つ……)
紺碧会はまだ正式に発足していない。
しかしながら高野五十六と知り合って以来、そういう人物がちらほらと海軍内に存在することを前原は耳にしていた。
「どうかなさいましたか?」
富森の訝しげな表情は心配そうな表情に取って代わった。
彼は気のいい親切な性分らしい。
「……いえ、すみません、助かりました……」
前原はにっこり笑うと富森の腕を放し、膝の落ち葉と泥を払いだした。



二〇三高地の頂上には軍施設と防空陣地がある。
ふたりとも身分証明書を見せれば大きな顔をして入れる。
「なにもそこまでしなくてもよろしいでしょう」
富森は穏やかに微笑む。
「ええ。一般観光客ですよ、私たちは」
そう前原も応じた。
後世日本の軍部は前世ほど傍若無人ではない。
記念碑のところまでは観光客も自由に立ち入ることができる
砲弾をかたどった記念碑には「爾霊山」の文字が大書されている。
爾(なんじ)の霊の山、と書いて「にれいさん」と読ませる。
二〇三高地の、に、れい、さん、からあてている。
「万人斉しく仰ぐ爾霊山……か」
前原がこの青銅の巨大なモニュメントを見上げてつぶやく。
爾霊山の名は乃木将軍の漢詩から取られている。
「……乃木閣下は詩人ですな」
富森は眩しそうに目をしばたたいて答えた。
そろそろ西に傾いてきた陽が目に入るのだ。
前原はひょいと身軽に記念碑の土台に飛び乗ると、その青銅の塊に手を触れてみた。
冷たく、金物臭い。
この高地を奪うために流された日本人の血の量を彼は思った。
「詩人としては一流ですがね……」
前原は皮肉な目になった。



「ああ富森さん、海が見えますよ……案外、近いんだなあ」
前原は記念碑を背にして海のほうを眺めている。
彼の無邪気な声と子供のような行動に富森はいささか戸惑っていた。
「そんなところに上らなくても、ここからだって見えます……」
「富森さん、怒ったんですか?」
前原はくるっと彼のほうに振り向くと、にっこりと笑いかけた。
若い女性と見紛うようなやさしげな顔だ。
「いいえ。でも降りてらっしゃい」
「はい」
前原は素直に返事すると、タンッ! と土台から地面に飛び降りた。
身が軽い。
(変わった青年と知り合ってしまったな)
綺麗な顔をした身のこなしの軽い涼やかな青年。
無邪気そうな立ち居振舞の中にどこか醒めた投げやりな表情が見え隠れする。
(何か苛立ちを彼から感じる。転任したばかりだと言っていたな。人事が不満なのか、それとも……)
少し夕もやに霞んではいるが、旅順港は一望のもとに見渡せた。
西日が沖の小島を黄色く輝かせている。
遠くこのまま満州野へと続くかのような黄土色の丘陵。
富森はせっかくの旅順港を見ても戦術的な思いも歴史的な感慨も沸き起こらなかった。
彼の思考は彼の隣に立つ前原のことで占められていた。
さっきのはしゃぎようから一転して黙りこくったまま海を見つめる前原。
寂しげな瞳の色。
(どうにも気になる。ほってはおけないような)
前原がちらりと富森に目をやった。
人恋しげな眼差し。
「そろそろ日も暮れてきた。山道で暮れきってしまうと難儀です。そろそろ下りましょう」
富森は穏やかな表情のまま、静かに話しかけた。
「ねえ、富森さん」
「なんですか?」
前原はこの落ち着いた穏やかな男にその澄んだ瞳を向けた。
「富森さんは生まれ変わりを信じますか?」
「いいえ。人生は一度きりです。……少なくとも、私、という人生は」
富森は表情を和らげて視線を海に戻した。
「……やり直しは効かないと思いますよ」
「なんだか切ないな……」
前原の目の色が沈んだ。
すでに山頂には観光客の姿はなく、冷たさを増した夕風が足元の枯れ草を震わせていた。