◆旅順(二)


ねぐらに戻る鳥たちの声がさかんにする。
いよいよ日は西空に傾いてきた。
日没は近い。
岩陰は早くも薄暗く、人影のない山道は陰気な様相を見せ始めた。
「なんだか気持ちが悪いなあ。空はまだあんなに明るいのに」
早足で歩きながら前原は空を見上げた。
夕暮れ前の澄んだ水色の空に、幾筋か金色に染まった雲が輝いていた。
「よそ見をしているとまた塹壕に突っ込みますよ」
富森がにやりと笑って注意した。
(少し元気になったのかな? さっきはひどく沈み込んでいたから……)
旅順港を見つめて帰りたくないような素振りを見せる前原に、富森はぎりぎりまで下山を遅らせてやっていた。
だから、さっさと歩かないと本当に山中で暮れきってしまう。
水色に澄んだ空はやがてオレンジ色に輝き、茜色に燃えだした。
冬至前の夕映えの時間はひときわ短い。
彼らが市街地に戻ったころには、鈍い紫色に染まった西の地平線だけが、かすかに夕焼けの名残を示していた。


「宿はどちらですか? それとも宿舎にまっすぐお帰りになるのですか?」
「富森さんは?」
「私はせっかくの上陸日ですから宿をとりましたが」
「今からでも取れるかなあ。実は宿をまだ決めていないんです」
「さて? 普通なら空きはあるはずですがな……まあ、とりあえず夕食でも」
「そうですね、すっかり腹が減りましたよ」
前原は人懐こく富森に笑いかけた。
前原はあっさりとこのまま富森と別れるつもりはなかった。
二〇三高地からの帰り道で、彼はずっと富森のことを考えていた。
今日会ったばかりの、もの静かに微笑む、この心惹かれる男のことを。


人懐こい、人恋しげな瞳をした青年はとうとう富森の宿までついてきてしまった。
しかもこの男、水のように酒を飲む。
酒はどこに入ったのか、まったく顔に酔いは出ていない。
(綺麗な顔をしてとんだウワバミだな)
「ずいぶんお強いですね」
いささか呆れ顔で富森は言った。
「そんなことはないですよ」
前原はにっこりと笑った。
(いい人だな、富森さんは。ついつい甘えてしまう……)
年下で階級も下の前原に対して、ぞんざいな口もきかずこちらが恐縮するほど丁寧だ。
控えめでありながら彼に気を細かく使ってくれる。
一緒にいて非常に気持ちのいい男だ。
(どこかで見たような気がするんだが。いや、この後世ではない。前世で富森……さて?)
前原はグラスの酒をぐっと半分ほど飲んだ。
セピア色の遠い記憶の富森らしき人物の顔が鮮明になりかけて……また混沌として消えていく。
かわりにもう一人の人物の顔がくっきりと甦ってくる。
威圧するような鋭い眼光や包容力のある落ち着いた雰囲気など、どことなく富森と共通するものがある人物が。
大石中佐……。
第二艦隊司令部に十一月に転属になったばかりの大石はひどく忙しそうだった。
結局、大石とは出航前に電話で少し話したきり……。
(俺はあの人にとっては教え子の一人でしかない。俺がどうあがいても……)
前原はグラスの残りをひと息に喉に流し込んだ。


急に黙り込んで暗い目で酒を煽る前原を、富森は心配そうに見つめていた。
(さっきまでにこにこしていたのに、どうしたのだろう? 何かよっぽど胸に鬱屈したものがあるのだろうか?)
富森の心配そうな目と合った前原は、照れくさそうに笑うとグラスをテーブルに置いた。
「いつもはこんなに飲まないんですよ」
「まあ今日は上陸日です、遠慮なくおやりなさい」
富森は空いたグラスに酒を注いでやった。


「前原さんはこちらへ来る前はどちらにおいででした?」
「伊六十二潜です」
前原の脳裏に潜水艦の薄暗い艦内の様子が浮かんだ。
あの狭苦しい潜水艦。
舷窓がひとつもない蒸し暑い艦内。
「ほう、潜水艦でしたか、それはそれは」
「高水と潜校乙種学生を修了して、春から伊六十二潜に乗り組んだばかりでした……それが突然旅順です。くさりたくもなります」
少人数で労苦を共にするゆえの、和気あいあいとした艦内ムード。
士官も兵も同じ飯をつつく陽気で家庭的な気風。
今となっては懐かしい物置のような士官室。
少尉のときから潜水艦勤務を志望し、専門の学校も修了して、いよいよ先任将校として潜航指揮を執ろうと意気込んでいた矢先に、この旅順要港部への配置である。
なぜ、いきなり陸上勤務なのか?
しかも潜水艦とは縁もゆかりもない旅順。
(どういう人事だ! 俺が何をした!)
前原は悔しさに唇をかんだ。


前原の憤りは富森にも理解できた。
わけのわからない陸上勤務に突然放り出されてはたまらない。
「ふうむ。しかし水雷屋でも馬公や旅順に配置されることはままあります。なに、すぐまた艦に戻れますよ」
「……そうでしょうか」
「そう悲観せずに。せいぜい一年二年の辛抱です」
前原は富森の慰めに情けなさそうに笑ってみせる。
「富森さんはずっと海上勤務だと伺っています……」
羨ましそうに前原は富森を見た。
落ち着いた豪胆そうなこの男はすでに四隻の駆逐艦艦長を務めている。
筋金入りの駆逐艦乗りだ。
「運が良かったということもありますよ……」
そう富森は控えめに微笑んだ。


……そうだったのか。
富森は納得がいった。
前原のこの捨て鉢とも見えた不安定な気持ちの揺らぎは、不本意な配置換えが原因だったのか。
……無理もない。
潜水艦乗りは特殊な職種だ。
一度潜水艦乗りとして歩みだすと、ほぼ乗艦は潜水艦に限定される。
……それが旅順に陸揚げされてはなあ。気の毒に。
ヤケを起こさず地道に副官として勤め上げることだと富森は思う。
……無駄になる経験など人生にはひとつもないと思うがなあ。
しかし今、こんな年寄り臭いことを彼に言ったところで彼をムッとさせるだけだ。
早いピッチでグラスを空ける前原を富森は目を細めて見た。
……若い自信家というものは、気負いと気概は人一倍あっても、逆境にはまだまだ弱いものだ……。
富森は静かに微笑む。


不思議な笑みだ。
前原は思った。
静かで温和な笑み。
なぜか富森とこうして向かい合っていると、言葉はとくにいらないような気がする。
無言であっても気まずくないのだ。
なぜだか気持ちが安らぐ。
相手のすべてを受け入れ、包み込んでくれるような富森の沈黙。
「穏やかな夜の海を見ているような気がする……」
遠いのか近いのか、深いのか浅いのか。
夜の暗い水面は人に太古の記憶を呼び覚ませる。
生まれる前の記憶といってもいい。
何も悩まず、何も考えず、包まれ守られていた記憶。
富森のそばにいるとそんな安らぎを感じてしまう。
この心地よい陶酔感は酒がもたらした幻なのだろうか?
前原は富森をじっと見つめた。


「海、ですか?」
富森は聞き返した。
この夢見るようなまなざしをした青年は、ときおり突拍子もないことを口にする。
彼はさすがに酔いが廻ったのか、うっすらと上気した頬をして富森を見つめていた。
「ええ。あなたを夜の海に喩えてみたんですよ……」
潤んだ瞳に浮かんだ熱っぽい光。
薄く笑った口元にぞくっとするような色気がある。
「穏やかに凪いだ夜の海……ふと飛び込んでみたくなる……」
綺麗な顔は笑っている。
瞳は富森の目をしっかりと捉えている。
富森は返答に窮した。
「……詩的な表現ですな。その、私はそういったものには疎いのですが……」
富森はかろうじて曖昧にごまかして答えた。
……彼は酔って人をからかっているのか?
「うふふ……」
前原はくすぐったそうに笑うと、自分のグラスに酒を注ぎ足した。
「すみません。詩人の真似事はよしておきます」
きゅっと美味そうにグラスの酒を飲み干す前原に富森はほっとした。
汗がどっと噴き出すのを富森は感じた。
「しかし酒にお強いですな。私はだいぶ酔いが廻ったようです。失礼してひと風呂浴びてきます」
前原はにこっと笑ってバスルームに向かう富森を見送った。