◆旅順(二)〜続き
……さて、どうしよう。
部屋にひとりになった前原は頬杖をついた。
カラリ、とグラスの中の氷が回った。
返答に困っていた富森の顔を前原は思い返す。
拒絶、ではなかった。
……できれば彼を手に入れたい。
大石に似ていると思ったときから前原は彼が欲しかった。
半日行動を共にして前原はますます彼に惹かれた。
落ち着いた大人の雰囲気と誠実さと情の濃さ。
それは大石とよく似ている。
だが、どこまでも熱く陽性な大石に比べ、富森はどこか遁世した隠者の趣がある。
そのくせ人に優しい。
大石のお節介じみた熱い親切さとはまた違う、どこまでも相手を許容する懐の深い優しさだ。
前原は酒をグラスに注いだ。
氷がまたカラン、と回る。
……酒はいくら飲んでも気が滅入るだけだ。
できれば彼に惑溺してみたい。
彼に甘えてみたい。
大石に出来なかったことを彼にしてみたい。
……彼は受け入れてくれるだろうか?
不安な気持ちと共に前原は酒を一気に煽る。
……どうなろうとかまうもんか。
捨て鉢な気分がまた前原を覆う。
……あの青年をどうしよう?
富森はやや途方に暮れていた。
さほど酔っている様子はないのだが、どうも態度が妖しい。
……私の勘繰りかもしれないが。
これが単に酒癖の悪い男の扱いならば、富森は十分心得ている。
……問題はそんな連中と一緒くたの扱いをしていいかということだな。
昼間の彼の寂しげな目の色を富森は忘れられなかった。
そして夕暮れの旅順港を眺めていたときの沈んだ横顔。
富森に向けられたあの人恋しげな瞳。
……抛っておけなかった、とても。
宿に誘うと嬉しげについてきた彼。
彼の気持ちの不安定さは望まぬ陸上勤務への不満からだとわかった。
それはいい。
……いずれ彼も落ち着く。しかし理由はまだあるような……。
よけいなお節介かもしれない。
それでも富森は出来れば力になってやりたかった。
……こうして旅順で出会ったのも何かの縁だろう。
前原が何か富森に言いかけてはためらっているのはわかっている。
もし何かあるのならそれをまず訊いてやろう。
富森はざぶりと湯を満たしたバスに身を沈めた。
……そんなに長風呂だったかな?
バスルームから部屋に戻った富森は困ったように前原に近づいた。
前原はテーブルに突っ伏して眠っているようにみえた。
「……前原さん?」
そっと声をかけると思いのほか簡単に前原は頭を上げた。
「ああ。眠っていたわけではないんですが……すみません」
前原はテーブルの上の酒瓶をトンと置き直した。
「空っぽです。全部飲んでしまいました」
「全部……」
富森は絶句した。
「無茶をしますなぁ。身体に毒ですよ、いくらお若いとはいえ」
「ふふふ。大丈夫です、このぐらい。でもあなたの酒だ」
「そんなことはどうでもよろしいです。水かなにか頼みましょうか?」
「じゃあ、追加をもう一本……うふふ嘘ですよ、もうけっこう」
ふわん、と前原が笑ってみせる。
少し酔いが顔に出て、至極色っぽい。
「ふう、なんだか暑いなあ」
前原は笑った顔のままシャツのボタンに手をかけ、全部外してしまった。
シャツの裾をひらひらさせて前原はしどけなく椅子にかけている。
硬く締まった大胸筋と腹筋。
ぐっとウエストでくびれた細い腰。
まるで少年のような優しげな身体の線、それでいて青年らしい発達した筋肉。
潜水艦でほとんど日に当たらなかったせいか、前原の肌は青白い。
酔った半裸の前原の姿は男色の傾向がまったくない富森ですらたじろぐ妖艶さだった。
(こ、これは、目の毒だ)
富森はどぎまぎして目を逸らす。
「ふふふ……」
何がおかしいのか、伏し目がちに色っぽく前原が笑う。
(誘っているのか、彼は?! ……いやいやこれも酒癖だろう。色っぽい酔態の女だっているんだからな)
富森はそう善意に解釈して心を落ち着けた。
「さて、そろそろお開きにしましょうか。ここの部屋はあなたがお使いなさい。私は他の部屋に移りますよ」
「そんな、いいのに」
前原は気だるげに目を上げた。
「一緒でよかったのに……」
前原は不満げにつぶやくと、ふらりと椅子から立ち上がった。
シャツの前をはだけたまま、彼は挑むように微笑んで富森の前に立った。
富森は挑発的な彼の媚態に息を呑んだ。
前原はふわりと笑いかけると、そのまま富森にしなだれかかった。
「狭いベッドに眠るのはお互い慣れっこだ……そうでしょう?」
前原は富森に抱きついたまま、その耳元に気だるく囁きかける。
富森はぞくりとした。
(なんともこれは……!)
「……ん……」
耳元の色っぽい声にまたもぞくっとして、富森は肩の上の前原の顔を見た。
彼は目を閉じて微笑んでいた。
彼の体重がずっしりと肩にかかってきた。
前原は酔いがここに来て急に廻ってきたようだ。
「前原さん、眠いんですか?」
「……」
「さ、ベッドで休んでください」
「……」
富森は半分眠っている前原をベッドまで引っ張っていった。
どさりとベッドに倒れこむと、そのまま前原はすうすうと寝息をたてだした。
はだけたシャツから剥きだしになった胸が静かに上下している。
(やれやれ、助かった)
富森はほっとして前原を見下ろした。
(綺麗すぎる男というのも困ったものだな)
ぜい肉の一片もない鋭く削げたわき腹と、良質の鋼のような肩から胸への筋肉。
ギリシアの彫刻のような美青年ぶりである。
(けんのん、剣呑……)
富森はそう内心つぶやきながら、彼の靴を脱がしてやった。
はだけたシャツのボタンを留めてやり、毛布を掛けようとしたとき、前原が不意に抱きついてきた。
「……」
富森を見上げる彼の目は酔っていなかった。
蒼く澄んだ悲しげな瞳をして、彼はじっと富森を見上げた。
「……」
富森も彼の目を静かに見つめ返した。
穏やかな邪念の一片もない富森の目を見て、前原は目を閉じた。
「よく休んでください……おやすみ」
富森は前原の腕をそっとはずすとベッドを離れた。
ドアの前で富森は部屋の明かりを消した。
「……富森さん……」
消え入りそうな声で、ベッドから前原が呼んだ。
「はい」
「……すみません……」
「いいんですよ……おやすみなさい」
いたわりのこもった穏やかな声で答えると、富森は部屋を出て行った。