◆旅順(三)


照和十年春。
旅順軍港の埠頭に前原は立っていた。
ときおり寒風が正面から吹きつける。
今日の彼は仕事でこの埠頭に来ていた。
黄海での演習から帰ってくる駆逐隊の出迎えである。
旅順に来てからあまり仕事熱心とはいえない前原が、めずらしく自分から進んで引き受けた役目であった。
今日帰ってくる駆逐隊には「藤」が含まれている。
前原の目当ては控えめで穏やかな「藤」艦長、富森少佐にあった。


ひさしぶりに富森に会える。
この半月、富森に会うことが出来なかった。
前原はそわそわと何度も腕時計を見る。
そろそろ艦影が見えてもいい頃だ……。
やがて水平線上に一隻また一隻と艦影が見え出した。
駆逐隊の帰港である。
足の速い駆逐艦たちはぐんぐんと港に近づいてくる。
艦隊の帰還に軍港内はたちまち活気づいた。
僚艦でごった返す港内に、一隻の駆逐艦がするすると進入してきた。
ゆっくりと慎重に浮標を狙う他艦を尻目に、その艦はすうっと浮標に近づくと、あっという間に係留してしまった。
「藤、ですな。いつも見事なものだ」
「まったく車を戸口に横付けにするみたいに楽々と浮標を取るじゃないか」
「藤の富森艦長は操艦上手で名の売れた男ですからね」
出迎えの参謀と要港部員たちが「藤」のあざやかな入港を褒めそやす。
前原もこれほどあざやかな操艦の手並みを目にしたのは初めてだった。
彼はあらためて艦長としての富森を尊敬しなおした。
(あの人らしいな……富森さん)
前原の顔がほんのりと紅潮した。


「藤」の上陸員たちは露天甲板に整列をはじめ、意気揚々と内火艇に乗り込んでいく。
彼らは自分たちの艦長の腕の良さを誇りとする。
浮標取りに手間取る他艦に先駆けて、上陸一番乗りができる彼らの得意さは推して知るべし、である。
単純な話ではあるが、入港の際の操艦の上手い下手はその艦の士気を大きく左右した……。
ほどなく「藤」の内火艇が埠頭に着いた。
乗組員たちはきびきびと上陸に取り掛かる。
しかし彼らの風体は、身ぎれいなはずの海軍軍人にしてはどこかしらむさ苦しい。
上陸にあたって軍装はいいものに着替えたに違いないが、それでもどこかくたびれた感じがしている。
とくにその軍帽がみな揃って傷んでいる。
彼らの軍帽は海水をかぶったために形が崩れ、その前章は変色すらしていた。
「藤」のような小型駆逐艦の艦橋勤務は、潮まみれになるのが当たり前だった。
ちょっとした波でも艦首が水浸しになるうえに、なにせ旧型駆逐艦の艦橋には屋根がなかったのだから仕方がない。
普段彼らは海水が入らないように首筋に手ぬぐいを巻き、雨衣を着込んで勤務していた。
「藤」はまだしも、もっと小さな水雷艇では、艇長以下海軍軍人とは思えぬすさまじい格好で勤務せざるを得なかったという。
ゆえに駆逐艦勤務は、そのなりふり構わぬ格好から「乞食商売」とまで呼ばれていた。
その伝統からか、彼らは豪放磊落をよしとして服装にあまり拘らない。
それがまた、いなせで粋なものに映るほど、駆逐艦乗りたちは威勢がよかったのである。
富森もまた部下たちと同じように、やや形の崩れた軍帽を目深にかぶっていた。
彼は出迎えのなかに前原をみつけて庇の陰からニッと笑って見せた。
潮焼けした富森に駆逐艦風の風体がよく似合っていた。
その逞しく不敵な面構えはまさに生粋の駆逐艦乗り……前原は今まで知らなかった富森の一面を見たような気がして、胸が高鳴るのを憶えた。


このごろは富森の上陸日と彼の休みの都合がつけば、一緒に食事をしたり出かけたりしている。
富森は嫌な顔もせず、彼に付き合ってくれる……淡々と。
富森は彼の愚痴や不満をそのまま受け止めてくれる。
そして情のこもった慰めの言葉を掛けてくれる。
前原が人恋しさから寄りかかっても、静かにそのまま抱きとめていてくれる。
しかし、それ以上は富森はさり気なく身をかわして、彼の誘いに乗ろうとはしない。
(今日こそは……)
そういう下心が前原になくもない。


この日の勤務後も前原は、宿をとって久しぶりの上陸を楽しむ富森のところへ遊びに来た。
富森は上陸時の何よりの楽しみである入浴を済ませ、のんびりと寛いでいた。
「ねえ、富森さん」
「なんですか?」
窓から外を眺めていた富森が前原に目を戻した。
「なにを見ているんですか?」
富森の横に寄り添い、前原はさりげなく彼の腕に手を触れる。
(また……彼は)
ちらっと困った顔になりながらも、富森はそのままにしておく。
嫌ではないが、どうも心臓に悪い……。
「若葉のうす緑がきれいなので、見とれていたのですよ」
「ああ、若葉……いい色ですね」
(この季節の新緑が好きな人をもうひとり私は知っていますよ。……兵学校の教官室の窓からよく裏山の緑に見とれていた……あの人と初めて親しく話したのも、こんな季節だったなあ)
前原の瞳が懐かしい面影を追って宙を彷徨う。
片肘を窓枠にのせ、半身になって裏山を見つめていた大石教官。
端正な横顔だった。
陽気な熱血漢でありながら、ロマンチシストな一面も持つ大石教官。
窓の外の前原生徒に気づいて、照れて笑ったあの眩しいような笑顔。
忘れられないあの頃の思い出。
今、大石は忙しい第二艦隊での勤務に追われて、新緑を目にする機会もないのではないかと思う。
(逢いたい、大石教官……)
前原は横に立つ男に目を戻した。
どことなく大石に似た雰囲気のある鋭い目の男。
前原は無言で富森に身を預けた。
辛い片恋、報われぬ想い、逢うに逢えない遠い存在。
(寂しい。たまらなく寂しい)
前原の無言の訴えを富森は黙って受け止めた。
普段の前原、素直で穏やかな好青年である前原に富森は好意を寄せていた。
ときおり別人のように沈み込み、富森に縋りつく彼もまた前原であることには変わりない。
たとえ前原に男色家の傾向があったとしても、富森は感情の起伏の激しいこの不安定な青年を突き放すことが出来なかった。