◆旅順(三) 〜続き


(……私ではあなたの悩みの何の解決にもなれないのだろうが)
富森は前原の背に優しく手を置く。
(気休めにでもなれば……かわいそうに、なんて寂しそうな目をするんだろう)
富森の静かな慰めは前原の心をいつも落ち着かせる。
心に刺さった痛みや辛さは鈍く麻痺して、富森の優しさに溶けていくようだ。
「ごめん……富森さん」
「なぜ、あやまるんです?」
前原は答えずに、ただ富森を抱く腕に力を込めた。
富森を大石の代わりにしている後ろめたさ。
身勝手な甘え方だと自分でも思う。
「あなたは何も訊かないんですね」
「訊いたほうがいいのでしょうか?」
「わからない」
「……話したくなったらそうなさい」
富森の落ち着いた静かな声。
不思議な心に響く声。
富森は何の代償も求めず、こうして前原を受け止めてくれる。
(どうしてあなたはこんなに優しいのだろう?)
「ねえ富森さん」
「なんですか?」
「あなたを本気で好きになってもいいですか?」
「……」
「やっぱり迷惑ですか?」
「そうではなくて、私はあなたに応えられません」
「私が男だから?」
「……ええ」
「ふふ……じゃ、私の一方通行の恋でかまいません」
前原は額を富森の肩に乗せて暗く笑った。
(現にあなたはこうして抱き合うことを許してくれてるのに。あなたはいったい、どこまでだったら許してくれるんです?)
「あなたが好きだ、富森さん。あなたの優しさと強さが好きだ」
前原は顔を上げた。
挑むような目で彼は富森を見つめた。
「だめだ、あなたがたとえ嫌だと言っても……」
前原は富森に接吻しようとした。
富森は彼から逃げるように身体を引いた。
「困ります、私はやはり」
富森は両手を前原の肩に置いて、彼を押しとどめた。
「あなたが嫌なんじゃなくて、その、やはり、困ります……」
前原は言葉に詰まりながら言い訳をする富森をじっと見つめた。
富森の困ったような照れたような顔は少し赤くなっている。
「気を悪くされたのなら申し訳ない……しかし、どうも私は……」
黙って部屋を出て行けば済むことなのだが、前原の気持ちを思うと富森にはそんな薄情なことは出来ないのだった。
(あなたの情けに弱いところを逆に利用させてもらいますよ)
前原は富森の優しさに付け入るつもりで、彼の目をじっと見つめる。
「……」
富森は前原の訴えるような目に言葉を失ってしまった。
前原はそんな彼の表情をみすまして、ゆっくりと顔を近づけていった。
富森はもう逃げなかった。


前原は体温が高い。
彼の手のひらも、首筋も、額も、いつも熱っぽい。
(熱いな……)
富森は前原の唇を受けながらそう思った。
別に男だからといって唇の感触が違うわけでもない。
しかし……富森がおとなしくしていると、どんどん大胆になる前原の熱い唇と舌……。
富森は困惑した。
いくらなんでも、これ以上は富森としては付き合いきれない。
富森は邪険にならないよう気をつけながら、そっと前原を押し返した。


キスの途中で逃げられてしまいはしたが、前原は満足していた。
「ごめん、富森さん……」
そう口で謝りはしても、彼は紅潮した頬をして勝ち誇ったように富森を見た。
富森は弱りきった顔をしてへの字に唇を曲げている。
ちらりと前原の顔に目をやって、そのまま向こうを向いて腕組みをしてしまった。
(困ったことになった……いくら女より綺麗だといっても男と……どうしたものか)
やはり生理的に受け付けないところがある。
(困った。こういうことはやめてくれと言うのは、彼にしてみれば酷な事なのだろうか? しかし……)
富森は前原を傷つけたくなかった。
前原がそんな富森の性格を見越してとった行動だとは、うすうす察しはついている。
察しがつきながらも、そういう前原に腹を立てるどころか、彼の気持ちがまず心配になるのだから、富森も甘い。


前原は向こうを向いたままの富森の沈黙が不安になってきた。
(図に乗りすぎたかもしれない。……嫌われた?!)
すーっと血の気が前原の顔から引いた。
(ちがう。あなたが欲しいのは本当だが、それだけじゃない。あなたが本気で好きなんだ)
富森を失うかもしれないと思うと、目の前が真っ暗になった。
自分がどんなに彼に依存していたかがわかる。
狩猟のような軽い気持ちで彼を手に入れようとしていたはずだったのに、いつの間にか彼に本気になっている自分に気づかされる。
(失いたくない。俺は今、あなたがいないと……)
「……耐えられない!」
前原は窓枠を掴んだ。
指先が白くなるほど金具を握り締める。
痛みは感じられなかった。


「……放しなさい。手が切れたらどうするんです」
富森の静かな声がして、彼の手首にそっと手が置かれた。
「さあ」
前原は促されて手を金具から放した。
手指は白くなって痺れていた。
前原は怖くて富森のほうを見ることが出来なかった。
もし彼の顔に軽蔑や嫌悪の表情が浮かんでいたら。
(構うものか! どうとでもなれ!)
腹の底から湧き上がってきた自暴自棄な勢いのままに、彼は振り向いた。
富森は前原の握り締めていた金具の型がついた手を心配そうに見ていた。
「手の皮が切れている。自傷行為ですよ、こんな……」
富森は振り返った前原と目を合わした。
血の気のひいた前原の捨て鉢な形相に富森はぎょっとした。
「前原さん……どうしたのです」
心配そうな思いやり深い富森に見つめられて、前原はうなだれた。
富森は前原を両腕で抱きかかえた。
「前原さん……心配させないでください。ひょっとしてあなたは誤解していませんか? 私もあなたが好きなのですよ、あなたという人が」
富森はそのまま彼を胸に抱きしめてやった。


「その、上手く言えないが、あなたが気になって放っておけない。私でよければ頼りにしてもらっていいのです……」
富森は言い聞かせるように言葉を継いだ。
「うーむ。これではなんだか女性に恋の告白をしているようなおかしな具合ですなあ」
……と天井を見上げて富森はつぶやく。
「けっしてあなたを女代わりとして見ているのではありません、断じて。うーむ、そうではなくて……」
説明に困って天井を睨む富森の顔を、前原が愛情を込めて見上げていた。
(いい人だな、あなたは……ああ、あなたが好きだ!)
「とにかくヤケになるのはおやめなさい。自分をもっと大切にしてください。どんな悩みがあるにせよ、私に出来ることなら」
二人の目が合った。
前原はおもむろに富森の唇を見つめる。
「う……それは」
富森が言葉に詰まった。
再び、前原の唇が彼に押し付けられる。
熱く若い、貪欲な唇。
途中でふっと唇は離れ、前原は富森の様子を伺う。
……だめ? あと、もう少しだけ……。
そんな懇願をするような思いつめた瞳が富森に向けられる。
(困る。だがあなたならそう嫌でもないと思うのは、これはどうしたことだろう?)
前原が目を閉じた。
綺麗な女顔。
目を閉じた懸命な表情のまま、顔を傾けてすっと寄せてくる。
こんな顔をされては富森は拒めない。
そのまま前原の接吻を受け入れるしかなかった。
(困った……こうなると拒まない私のほうに非があるというものだ……)
熱く激しいくちづけは続く。
全身で縋り付いてくる前原を、われ知らずしっかりと富森は抱きしめているのだった……。