◆旅順(四)


日が落ちたあとの夕闇の街を、富森は開け放した窓からぼんやりと見下ろしていた。
長風呂から出た身体に夜風が涼しく心地よい。
そこに部屋のドアが開き、涼やかな青年が顔を見せた。
「やあ、いらっしゃい」
青年を見て富森は穏やかに微笑んだ。
要港司令部の副官、前原大尉。
どういうわけか彼に懐いていて、彼が上陸するとこうして彼の宿まで遊びに来る。
「お邪魔します」
前原もにこっと笑い返した。
少しはにかんだような人懐こい笑顔だ。
すらりとした均整のとれた身体を、細く開けたドアの内側にすっとすべりこませると、彼は後ろ手でドアを閉めた。
おっとりとしたその態度に似合わず、彼の身のこなしはネコ科の動物のように素早く敏捷だ。
捉えどころのない不思議な青年だと富森は思う。
おっとりしているのか俊敏なのか、はにかみやなのか大胆なのか。
そのときどきによって、彼の見せる顔はくるくると変わる。
部屋に入って上着をとった前原は、カーテンの揺れる窓を不思議そうに見た。
「窓が開いているんですか?」
「ああ、空気を入れ替えていただけですよ。閉めましょう」
たしかに風が冷たくなってきた。
湯冷めをして風邪を引いてもつまらない。
富森は前原に背を向けて窓を閉めた。


いつもと変わらない穏やかで落ち着いた富森の態度だった。
そんな富森にほっとしながらも、前原はなにか物足りないような気持ちがした。
この一週間、彼はいろいろと悩んだというのに肩透かしを食らったような心地だった。
……もう、普通の仲じゃないと思うんですよ、私たちは。それなのにあなたは何もなかったような顔をして……。
「富森さん……」
富森の不意を衝いて、前原が背後から抱きついた。
「会いたかった」
片手を軽く富森の首に廻し、甘い声で囁きかける。
富森の首筋に前原の熱い吐息がくすぐったく掛かる。
……忘れた、とは言わせない。あんなキスをしておいて。
「これ、よしなさい」
富森の声は動揺を隠し切れず、語尾がうわずっていた。
「……どうして?」
「ひっつかれると暑いです」
「暑いのなら、ボタンを外しましょうか?」
前原の指が富森のシャツのボタンにかかる。
「けっこうです、かまわんでください」
富森は慌てて首もとのボタンを手で押さえた。
「うふふふ」
前原は富森の慌てようを面白がる。


払いのけられないのをいいことに、前原の手がそろそろと富森の首筋を撫でる。
喉……鎖骨……シャツの襟元。
……もっと肌に触れたい。
シャツのボタンを彼の指がもてあそぶ。
……でもボタンを外したりしたら、富森さんは嫌がるだろうな。
前原の指は富森の喉元に戻った。
……逃げられたら元も子もない。今はまだ我慢だ……。
富森の首筋が少し汗ばんできた。
前原はそっと彼の表情を窺う。
彼は苦い顔でそっぽを向いて前原の悪戯に困り果てている。
……困らしているんだな、あなたを。
悪いような、嬉しいような浮き立った気分が前原を支配する。
……ああ、あなたが好きだ。
前原は富森のシャツの襟元に顔を埋める。


「富森さん、石鹸の匂いがしますね」
「そりゃそうでしょう。入湯上陸なんですから風呂が一番の目的ですよ」
富森が憮然として答える。
「じゃあ二番目の目的は?」
「……休養です」
(まったく困った人だ。私をからかっている)
富森はぴったりと彼に抱きついたまま耳元に囁きかける前原にしぶしぶ返答してやる。
前原の攻勢に困惑しながらも、富森は彼から逃げることが出来なかった。
以前ならそっとさりげなく身をかわすことも出来たのに。
接吻を受け入れる前ならば。
逃げ出したいのに、心の底では前原の次の行動を待っている自分がいる。
(あれから私はどうもおかしい。どうもその……)
富森の顔がいっそう渋くなる。
「三番目の目的は私だと言って欲しいな……」
そう言って首筋に前原は軽く唇をつけた。
「あっ」
富森は彼の唇から逃れようと身をよじった。
「いやだなあ、そんなに嫌がらなくてもいいでしょう? うふふ」
前原はぎゅっと富森を抱きしめて幸せそうに目を閉じた。
「いい匂いだなあ……ずっとこうしていたい」
富森の肩に顔を埋めて前原はうっとりとつぶやいた。
富森のそばにいるだけで心が安らぐ。
こうして自分を受け入れてくれる彼といるだけで癒される。
……ああ、あなたが好きだ、富森さん。
好きな人をこうして抱きしめられるのは、なんて幸せな気分なんだろう……!
前原は満足げに富森をもう一度抱きしめた。