◆旅順(四)〜続き


しがみつかれるだけなら、富森もさほど困惑せずにすむのだが……。
この綺麗な寂しがり屋の青年には、それだけではすまない「悪癖」がある。
やがて富森を抱きしめていた彼の手がまた首筋や胸元を撫で回す。
富森は不穏な雰囲気を察して身を固くした。
「富森さん……どうしたんです? 脈が速いな……」
前原は笑いを含んだ低い声で富森をからかう。
「どうもこうも……いいかげん暑苦しいから離れてください」
「い、や、です……」
前原は耳元に甘く囁きかける。
「せっかくあなたと過ごせるのに。この一週間は長かった……あれからずっとあなたのキスが忘れられなくて」
(うむむ、雲行きがあやしくなってきた……なんとか逃げられないか)
富森はゴソゴソと居心地悪そうに身動きした。
できればこの前の出来事はなかったことにしたい。
「ねえ、いいでしょう……?」
(……う、きた)
背後から富森の前に廻り込み、彼の背と肩をしっかり抱いたまま、前原は彼を見つめて微笑む。
優しい綺麗な顔。
澄んだ瞳がこの上なく優しく富森に微笑みかける。
紛れもない愛情と信頼がその瞳には込められている。
「困るんですよ……」
口ではそう抗議しても、すっと顔を寄せてくる前原を遮ることが出来ない。
結局は前原の思惑通りに唇を合わせてしまう。


熱い濃厚な前原のキスに適度に応え、適度に逃げながらも、富森はそろそろキスだけではすまなくなることを予期していた。
(出来ればこれ以上は遠慮したい、が……)
「ふう……」
前原が富森の肩の上で満足そうな吐息をついた。
「キスが上手いな、富森さん……」
目を上げた彼の表情は陶然としており、瞳には妖しい霞がかかっていた。
普段の優しげなおっとりした前原とは別人のような妖艶さである。
頬は上気し、唇は濡れたように紅い。
(突き放せない、とても彼を。しかしこれ以上は私には無理だ。ここは勘弁してくれと謝るしか……)
そんな富森の胸のうちを読んだのか、前原は目を伏せるとぎゅっと彼を抱きしめた。
「富森さん……わかってます。無理強いはしませんよ。本当はもっと……」
……本当はもっとあなたを楽しみたい。あなたが欲しい。でも……。
「でも、あなたに嫌われたくない」
そのまま前原は無言で彼を強く抱きしめ続けた。
「申し訳ない……」
富森は気抜けしたように呟いた。
(助かった……しかし彼に気の毒なことをした)
前原は富森を放すと、泣きそうな顔に無理に笑顔を浮かべてみせた。
「飲みに出ませんか? 旅順に長い職員にいい店を聞いたんですよ」
前原は椅子にかけておいた上着を手に取る。
そんな前原の腕に手を置いて、富森が詫びた。
「前原さん、申し訳ない」
「そんな、よしてください」
……あなたって人は。どうして謝るんです? あなたの優しさにまた付け込みたくなってしまいますよ。
「飲みに行きましょう」
前原は促す。
「ええ」
富森も上着に手を通して外出の用意をする。
「ねえ富森さん。酔ったら介抱してくれますか?」
甘えるような切ない瞳を前原は富森に向けた。
「あなたは酔いつぶれたことは一度もないのではありませんか?」
静かに富森が答える。
「ふふふ。あなたはお見通しだな」
「安心なさい。万一の場合はあなたを抱えて帰りますよ」
「……ありがとう」
目を見交わしてふたりは微笑んだ。
宿を出るとふたりは肩を並べ宵の街に消えていった。
まだ肌寒いが外套はもう要らない。
旅順の春もようやく長けてきた。
街のアカシア並木に羽毛のような柔らかい若葉が萌え出していた。