◆旅順(五)
「もうおよしなさい」
富森は酒を注ぎ足そうとする前原の腕を押さえた。
旅順新市街の薄暗い場末の酒場にふたりはいた。
空になった酒瓶が二人のテーブルの上に並んでいた。
「とことん、付き合ってくれるんじゃなかったんですか?」
前原の目許に少しだけ酔いの気配がある。
彼が暑がって開けたシャツの胸元も、ほんのりと桜色に染まっている。
(いくら軍港といっても夜中の治安はあまりよくない。いい加減に切り上げたほうがいい)
なんといってもここは軍向けの店の並ぶ旧市街ではない。
富森は前原の手から酒瓶を取り上げた。
「私はもう飲めませんよ。あなたみたいな底なしではありません」
「ふふ。もっと飲めるはずでしょう、富森さん。藤の先任に艦の宴会の話を聞きましたよ」
「あれは付き合いです。好きで飲んでいるわけではない」
富森は苦い顔になった。
……彼はうちの水雷長と何を話したのだろう?
「そうそう。私はあなたと同郷の知り合いだと言っておきましたから、よろしく」
前原はしれっとした顔で言う。
「……ふう、同郷ですか」
富森はやや呆れ顔である。
「そう言っとけば、あなたと親しくても不審に思われません」
「ずいぶんと手馴れてらっしゃる。いったい何人の同郷人がおいでなのか」
「ふふふ、言いましたね。なんか誤解をなさってますよ、富森さん」
「ほう?」
「……まあいいですよ、なんとでも思っていてください。自分で注ぎますから、それを返してください」
前原が酒瓶に手を伸ばした。
「もうおよしなさい。時間も遅いから、もう戻りましょう」
「いやですよ、まだ飲み足りない」
「あとは宿についてからにしてください。背負って帰るにはここからじゃ距離がありすぎます」
「そんな足腰が立たなくなるまで飲みはしませんよ」
前原の顔は笑っているが、不満そうにあごが突き出されていた。
「しかし、もう遅い」
「私が部下だったらあなたはとことん付き合ってくれるだろうに。飲みたいんですよ」
前原は投げやりな調子で言うとつまらなさそうに横を向いた。
「飲む場所によりけりです。無用心なことはやめましょう、軍に迷惑が掛かる」
富森は店の主人を呼び、勘定を頼むと紙幣を幾枚か渡した。
「さあ、帰りますよ」
「……」
前原は横を向いたまま、ふてくされたように押し黙っている。
「お願いします、前原さん」
「……」
不機嫌な顔のまま、ちらっと前原は富森を見る。
富森は温顔のままだが、断固とした態度はゆるぎそうにない。
「さあ」
富森に促され、前原は無言で席を立ち店の外に出た。
夜気に冷やされた路上では息が白く立ち上る。
前原は身震いをして上着を羽織り、三つほど外していたシャツのボタンを留めた。
強いラードの臭いが路地のどこかから流れてくる。
前原は顔をしかめた。
あとから出てきた富森が心配そうにそんな前原を窺う。
安心させるように前原が振り返って笑顔を見せた。
「大丈夫です、吐いたりしませんよ。どうも支那料理は性に合わない」
こういうときの何気ない前原の笑顔は、富森の胸が痛くなるほど無垢で透明だったりする。
そして、そんな笑顔のあとにふと見せる寂しげな翳りが堪らなく富森の気に掛かる。
「さあ、帰りましょう」
富森は優しく彼の肩をそっと押した。
前原がうなずき、二人は並んで歩き出した。
酔いで火照った身体に冷たい春の夜気が心地良かった。
前原は黙って歩いていた。
不機嫌なわけではなく、ときおり並んで歩く富森にニコリと笑いかける。
人気のない夜道はいつしか飲み屋街を抜け広い大通りとなり、視界が急に開けた。
春の夜空が頭上に暗く広がる。
西の空に小犬座のプロキオンが沈もうとしていた。
(もうそんな時刻か)
候補生の頃の天測実習で星座の位置は頭に入っている。
(旅順市内で星を見上げることになるなんて思わなかったな……)
西空にひときわ目立つプロキオン……オリオンもシリウスも、仲間の冬の星座がとうに地平に沈んだ春の夜空。
ぽつんと西の空に寂しく残るプロキオンに前原は同情を寄せた。