◆旅順(五)〜続き
何度目だろう、前原が彼を見て微笑むのは。
その目元だけの微かな笑みは富森の心をかき乱す。
酒場でふてくされていた前原と同一人物と思えないような澄んだ微笑み。
……あれだけの酒は彼のどこにいってしまったのだろう?
「前原さん」
「なんですか?」
おっとりした気持ちのいい前原の声が応じた。
「まだ飲み足りないですか?」
「そうですねえ……べつにもういいかな?」
前原はまた星を見上げて、はにかんだように笑って見せた。
ふたりの靴音だけがコツコツと石畳に反響していた。
「飲んで誤魔化せるのはその場かぎりですし」
「……何を?」
「もちろん、自分の気持ちをですよ」
前原は富森の顔を見た。
(もう忘れたんですか? 飲まずにいられなかったわけを)
前原の責めるようなほんのり媚を含んだ眼差しに富森は赤くなった。
「すみません。うっかりしていました」
「……そんな。いいんですよ」
少し笑うと前原は足元に視線を落とした。
暗い石畳の続く道はまるで欧州の街のようだ。
深夜の大通りはしんと静まり返っている。
夢で見たことのあるような、どこか懐かしい情景だった。
(いいんですよ。私が勝手にあなたを好きなんですから。無理は言いませんよ、もう)
夜空を見上げながら、異国の街を富森と並んで歩いていると、彼への想いが痛いほど前原の胸に募ってくる。
澄んだまなざしを夜空に向ける前原の横顔に、富森はそっと目をやった。
自分でもどう整理していいかわからない感情が、富森の心の中に湧き上がっていた。
街灯のそばを通るとき、前原の横顔がくっきりとした陰影を伴って浮かび上がる。
冴え渡った清々しい横顔に、男にしては柔らかそうな形の良い唇が息づいている。
……あなたを見ていると辛くなる。
街灯と街灯の間の暗い闇にまぎれて、前原を抱きしめたくなる衝動を富森は感じていた。
強く抱きしめて、そんな寂しそうな顔をしないでくれと言ってやりたかった。
何度も富森が情をこめた目で自分を見つめているのに前原は気づいていた。
今、彼の心が自分に向けられているのを前原は感じていた。
(私のことをこんなにも気遣ってくれるあなたがいる。少なくとも私の片恋ではないんですね……)
富森の情は疑うべくもない真心から出たものだ。
前原の心は静かな喜びに満たされていた。
「こうしてあなたが傍にいてくれるだけで……」
歩きながら前原は富森の腕に触れた。
「……十分です」
足元から目を上げず前原は言った。
彼の横顔には儚げな微笑が浮かんでいた。
透きとおりそうなその表情に、富森はまた胸が締め付けられた。
「別に強がりを言ってるわけじゃない。ただあなたが……」
そのまま少しだけ手のひらに力を込めて、前原は富森の腕を掴んだ。
「あなたがいてくれれば……」
前原は目を上げなかった。
富森は彼にかける言葉が見つからなかった。
……なぜ私はあなたを拒んだのだろう。今ならきっと……。
前原が男であっても関係ない。
彼を抱きしめてやりたい。
……これはどういう感情なのだろう?
確かなのは自分が前原に強く惹かれているということだ。
肉体的な交渉すら、もはや厭わず肯定できそうなほど……。
通りの角にひときわ大きなポプラの木が立っていた。
その木の陰で富森の足が止まった。
富森は何も言わなかった。
無言で前原に向き直り、しっかりとその胸に前原を抱き寄せた。
街灯の光もここには届かない。
富森の表情は暗闇に溶けて判別できなかった。
前原は身を富森にゆだねた。
(優しいんですね……富森さん……)
いたわりのこもった腕に抱かれる心地よさに前原は目を閉じた。
幼子を慈しむように優しく彼の背を撫でる富森に、前原は気弱に縋りついた。
(甘えてしまっていいんだろうか、あなたの優しさに)
富森の手が彼の声のない問いに答えるように彼の髪をそっと撫でた。
……いいんですよ、甘えても。
前原は顔を上げた。
富森の顔の輪郭が朧に見えた。
ふたりはどちらからともなく顔を寄せ、唇を合わせた。
初めての口づけのようにぎこちなく。
口づけを交わしながらも、これが恋なのかどうかは富森自身にもわからなかった。
ただ、富森にはこの青年の魅力に絡め捕られてしまった自分が不思議に客観視できた。
……私はもうあなたを拒めない。拒もうとも思わない。あなたの好きなようになさい。私はそれでいい。
夢中で縋りついてくる前原を受け止めながら、富森は諦めに似た覚悟を固めていた。