◆旅順(六)


シャワーを浴び、バスに浸かり、ひげをあたる。
ようやく、感覚が日常に近づいていく。
昨夜のことは……昨夜のことは当分忘れておくことだ……そう富森は洗面所の鏡を見ながら思った。
ところが彼は鏡の中にとんでもないものを見つけてしまう。
首筋に付いた、薄赤い前原のキスの痕。
……ああー、まずい! これはまずい!
ちょうど襟で隠れるか隠れないか、という微妙なあたりである。
……まいったな、これは。
赤い痕に手をやって富森はなんとも言いがたい表情になった。
憮然としながら、照れくさそうな、ちょっぴりニヤけたような。


昨夜は使わなかった自分の部屋に戻り、前原は手早くシャワーを浴びてきた。
そしてまた、富森の部屋に戻りベッドに腰掛けて、富森がバスルームから戻るのを待つ。
こうして見張っておかないと、恥ずかしがり屋の富森に逃げられてしまいそうな気がする。


前原が明るい朝の光の中で目覚めたのは、富森が彼の腕を動かしたからだ。
富森に腕を巻きつけたまま眠っていた彼の腕を、先に目を覚ました富森が解こうとしたのだ。
半目を開けた前原に構うことなく、富森はそそくさとベッドを降りてバスルームに向かった。
(……ムードのない人だな。そんなに慌てて起きなくてもいいじゃないか)
前原はベッドで大きく寝返りをうった。
肩や腕がだるい。
人に抱きついたまま眠るのは、少し姿勢に無理がある。
(……ふふ、そうかまた恥ずかしがってるのかな? 富森さんは)
逃げるように一目散にベッドを降りたのは、互いに身に何もまとわぬままの姿が恥ずかしかったのかもしれない。
夜の闇の中ならまだしも、朝の光の中では羞恥心もわく。
昨夜のじれったいほどシャイだった富森を思い出して、前原はクスリと笑う。
前原の腕の中で、まるで少女のように身を硬くしていた富森。
前原の手馴れた愛撫にも、恥ずかしがってなかなか緊張を解かなかった。
そんな初々しい反応を楽しみながら、前原は彼の獲物を十分に堪能したのだった。
もちろん、無体なことはしていない。
互いの昂奮を高めあい、快楽を共有しただけ……。
それでも男色経験のない富森には、相当抵抗があったようだ。
彼の反応も行為も、昨夜は何もかもが刺激的だった。
(素敵だった……もう逃しはしない)
乱れたベッドに腰掛けて、前原は富森を待つ。
彼がどんな顔で朝を迎えたのか、知りたい。
朝の光の中で昨夜の情事を後悔していないだろうか。
後ろめたい気持ちを抱えていないだろうか。


富森はバスルームのドアをそっと開けて顔をのぞかせた。
やはり前原が待っている。
富森は少し迷惑そうな顔をした。
そんな顔をされるのは、前原にとって心外だった。
「おはようございます。どうしたんです?」
「ああ、おはよう……その、着替えがそっちにあるもので」
「どうぞ、遠慮なくこちらで着替えてください」
そうと聞いて、前原は気を遣ってやるどころか富森の困惑を楽しむかのように、にこやかに笑ってみせた。
「むう……では失礼」
どうやら、向こうへ行ってくれと頼んでも聞き入れてくれそうもない。
富森は仕方なくバスタオルを腰に巻いて、バスルームから出てきた。
ちらりとベッドの前原に目をやって、富森はあたふたと鞄から着替えを取り出す。
(どうしてそう恥ずかしがるかなぁ)
前原は笑いをかみ殺した。
「その、じっと見ているのはよしてください、悪趣味です」
「悪趣味はひどいな……いいですよ、むこうを向いています」
前原は膝の上に両肘をつき、その上にあごを乗せて横を向いてやった。
今日もいい天気だ。
きっと旅順の海も真っ青にきらめいていることだろう。
(俺も海に戻りたい……書類や将官の相手をするのはもううんざりだ)
前原の意識はしばし憂鬱な現実に引き戻されていった。


カチャカチャ、とベルトの金具の音がした。
もうズボンをはいたようだ……そう前原は判断して富森のほうを見た。
一応、彼はもう服を身につけていた。
あとは靴下をはいて、シャツのボタンをとめるだけだった。
前原は立ち上がって富森に近づいた。
富森は一瞬身構える。
「……おはよう富森さん」
そんな富森に構わず、優しくもう一度前原は声を掛けた。
そして、ふわっと身体を富森の肩にもたせかけると前原は目を幸せそうに閉じた。
富森の骨太ながっしりした肩、剛直なまっすぐな背。
前原はその背に両腕を廻して抱きかかえる。
「……昨夜はありがとう」
(無理をして付き合ってくれて)
耳元でそう小声で囁くと甘えるように富森の肩に顔を埋めた。
「そんな……どう返事してよいものか……その、こちらこそ」
顔を赤らめて富森は口ごもった。
自分の肩の上に乗せられた、前原の綺麗な横顔に富森は心を奪われる。
満足そうに目を閉じた前原の微笑み。
いとおしさが富森の胸にこみ上げる。
彼は前原を抱きとめて、そのうなじを愛情を込めて優しく撫でてやった。
優しい愛撫の手に喉を鳴らしそうな甘い表情になると、前原は富森に縋りついた……。