◆旅順(六)〜続き


「あ……」
前原は富森の首筋の薄赤い痕に目を留めた。
富森のシャツの襟を押し広げ、前原はその痕跡を調べる。
「ついうっかり……こんな目立つところに付ける気はなかったのですが」
「そんなに目立ちますか?」
「どうでしょう、案外詰襟なら隠れるかもしれない」
うふふ、と前原が笑う。
「気づかれても艦長は昨晩モテたんだなと皆が羨ましがるだけでしょう? 相手まではわかりませんよ」
「む、しかし褒められたことじゃありませんな」
「ふふふ……謹厳な富森艦長には相応しくないですね」
自分が付けた薄赤い痕に前原はじっと目を注いだ。
「でも色っぽいな、そんなあなたも」
痕の上に前原は唇を押し当てた。
「あ、やめなさい」
富森は慌てて身をよじった。
「もっと上に付けましょうか? 目立つように」
半ば本気で前原は首筋に唇を這わせた。
「よしなさい、もうこんな時間です」
富森は必死に前原の唇がもたらす感覚に逆らった。
シャツのボタンを外そうとする前原の器用な手をぐっと掴んで押しとどめる。
「軍艦旗掲揚に間に合えばいいじゃありませんか」
「そうはいきませんよ、そんなことでは示しがつかんです」
生真面目な富森の態度に前原は続きを諦めるしかなかった。
「あなたもいずれ艦長になる人だ。艦長が自侭だと艦の規律はあっという間に弛みます」
富森は腕を離すとまっすぐな穏やかな目で諭した。
前原は残念そうにため息をつく。
謹厳実直な富森艦長……。
朝の光がなんとも恨めしい。


糊のきいた白いワイシャツ。
きっちりと撫でつけられた櫛目の通った髪。
生真面目な顔で身支度を整える富森を前原は見つめる。
朝の光を浴びててきぱきと支度をする富森は、どこから見ても謹厳な紳士である。
(どうにかしてあなたをもっと……)
この富森を自分との愛欲に溺れさせてみたい。
彼のほうから自分を求めさせてみたい。
そんな淫蕩な願望を抱いて前原は目を細めて富森を注視する。
獲物を狙う猫族の目だ。
「なにを考えているんです?」
身支度の手を止めて、不安そうに問う富森に前原はフッと笑って見せた。
蒼い瞳が淫らな色を湛えて大胆にきらめき、富森をたじろがせた。
「あなたにどうしたら公務のことを忘れさせられるかと考えてました」
前原は正直に答えると、つっと富森に寄り添った。
「どうやら陽のあるうちはダメなようだ。夜にならないと……」
思わせぶりな微笑も彼の端麗な顔立ちに浮かぶと身が震えるほどに凄艶だった。
「また次の夜に試させてくれますね? ふふ」
からかうように微笑むと彼はひげに軽くくちづけた。
「む……」
富森は首まで赤くなっていた。
このまま彼の誘惑に屈してしまいたい衝動が体内に沸き起こる。
しかし……しかし……ここは耐えねば。


「迎えの内火艇を待たしてはいかんので、私は先に失礼します」
身支度を整えた富森がそう告げると
「どうか気をつけてお戻り下さい。私はもう一時間ほど寝てから戻ります」
前原はそう答えて気だるげに微笑んでみせた。
通りに降りて肩越しに振り返ると、開け放した窓から前原が見送っているのが見えた。
(怠慢な副官だ。ギリギリの時間まで出勤しない気らしい。なんとも困った人だな)
そう思いながらも片手を上げて合図すると、彼も手を上げて挨拶を返した。
白っぽい朝の光が歩道に街路樹の影を長く描いている。
初夏の到来を思わせるまばゆい光に富森は目を細めた。
旅順港が青く市街地の向こうにきらきらと広がっている。
富森は前原が付けた首筋の痕にそっと手をやった。
ふたりがこうなることを予期していたのか、それとも思いがけない成り行きだったのか。
……どちらとも言いがたい。
しかし前原に強く惹かれ、諾々と彼の言いなりになったのは自分だ。
そしてめくるめく快感に我を忘れたのも自分だ。
ただ、強い羞恥と前原への愛着だけが富森の心を占めていた。
前原の表情、声、しぐさ……すべてがいとおしい。
富森は襟を立て気味にして前原が残した痕をそっと隠した。
いとおしいが少し扱いに困る……まるで前原の熱い恋情のように。
しかし富森はすべてを受容する。
その控えめな表情の下に、彼はもろもろの秘密を隠すことができたから……。
……「藤」からの迎えがもう埠頭に到着しているだろう。
朝の日差しを背に受けて、富森は足早に旅順港内に姿を消していった。