◆酒嫌い〜続き


「いっそがいさーん」
「ぶふふふ……」
磯貝の私室のドアが細く開けられた。
真っ暗な部屋の中に、通路の照明の光が一筋伸びる。
「寝てるのかなぁ」
「おじさんたちと遊びましょ……ぶふふ」
ふざけた酔っ払い声が廊下から聞こえる。
パチッと部屋の灯りがつけられた。
声の主は、早水に木島、それに軍医長だった。
あれから長官室で飲みなおして原をつぶし、やがて大石も脱落したので、今度は磯貝の部屋で彼を肴に飲もうと来たらしい。
「おっ、寝てる寝てる」
酔っ払い三人はベッドを覗き込んだ。
ベッドの主は毛布をかぶって身動きひとつしない。
「磯貝さーん」
「よく寝ちゃってるねぇ。起こすの、かわいそうだね」
「じゃ、寝顔でも拝見」
「そーいう趣味あんのか、あんた」
「だってかわいいじゃん」
「おーい。まだ起きないよ」
「やっぱり鈍感」
「起きないと王子様のキスで起こしちゃうぞー」
「げげっ」
「よせやい」
ゲラゲラゲラ。
真夜中というのに、人迷惑な酔っ払いの騒ぎ声が静かな右舷通路に響き渡る。


富森は先ほどから目を覚ましていた。
……誰だ、こんな夜中に。
  うわーーー!
誰かの絶叫に富森は思わずベッドに身を起こした。
……何事だ!?
えーっ、とか、なんで、とか驚いたような声が続いて聞こえた。
どうも早水たちの声のような気がする。
日本武尊幹部の私室はここと反対側の左舷にある。
……なぜこの右舷で騒いでいる?
富森はベッドから出た。
とにかく自分の部下たちが騒いでいるのに違いない。
右舷の司令部幕僚たちに迷惑をかけるわけにはいかない。
富森は寝間着を脱ぎ、手早く軍服に着替えた。
  うわ、やった!
  おい、何とかしろ!
そんな切迫した声が聞こえてきたので、富森は上着を着るのももどかしく通路に出た。


騒ぎの元はすぐにわかった。
通路の先にドアが半分開けたままになった部屋があり、そこから灯りと人の声が漏れていた。
  う、俺も吐きそう……。
  とにかくベッドに、わっあんたまで!
聞き覚えのある自分の部下の声が聞こえてくる。
富森の顔つきが渋くなった。
彼は早足になると現場に向かった。


そこは磯貝の部屋であった。
だが、主の磯貝の姿はなく、原が吐瀉物を前にして床にへたり込んでおり、軍医長と早水が左右から介抱しようとしている。
その後ろで木島がえずいていた。
一瞬その光景に富森は絶句したが、戸口に立つと彼は鋭く声をかけた。
「何事か」
ぎょっとして原を除く三人が振り返った。
「か、艦長」
「軍医長、参謀長の具合は? 医務室にお連れしたほうがいいのではないか?」
「いえ、意識もあるので特に処置する必要はないと」
軍医長が頭をふらふらさせて答えた。
……こんな酔っ払いの診断はあてにならんな。
軍医長を見る富森の目は冷ややかになった。
「参謀長。私がおわかりになりますな?」
富森は原の前にかがみこんだ。
吐瀉物の臭いがムッと襲い掛かったが、彼は構わず原の顔を覗き込んだ。
「……ああ」
原が目を上げて、富森の目をうつろに見返した。
「別の軍医を呼びましょうか?」
「いや、それには及ばん……俺なら大丈夫だ……それよりこいつらを追い返してくれ」
弱々しかったが、思いのほかしっかりとした原の口調に富森はほっとした。
「承知いたしました……軍医長、航海長、これっ砲術長!」
それぞれがふらつきながらもその場で気をつけの姿勢をとった。


「上に立つものが規律も守らず、だらだら深酒して何とする」
富森の目は炯炯と光っていた。
三人の酔っ払いは身を竦ませた。
「しかも今は平時ではなく戦時である、お忘れか」
富森は叱責するときも決して声を荒げたりはしないし、激しい言葉を投げつけるわけでもない。
しかしながら温厚な富森が怒ることは滅多にないだけに、叱られるとなんとも身にこたえた。
「三人とも即刻自分の部屋に帰れ。後は明朝」
「は、申し訳ありません」
大佐三人は深々と頭を下げた。
酔いもどこかに消し飛んでしまった様子である。


酔っ払い三人がほうほうの体で退散し、富森と原が部屋に残された。
「部下が大変な失礼を」
富森はとりあえず被害者らしい原に頭を下げて謝罪した。
「いや、こちらこそみっともない所をお見せした……寝ていたらいきなり上に乗りかかられて……この始末だ……」
原は怒ったような、情けないような顔つきになると、部屋の惨状から目を逸らした。
胃を急に圧迫されて、原は反射的に吐いたのだろう……毛布からシーツ、そして床。
吐瀉物の飛沫が飛び散っていた。
木島までがつられて吐いていったので、部屋の中は惨憺たる有様で、富森も思わず顔を背けた。
「とにかく出ましょう」
富森は原に腕を貸して立ち上がらせた。
「ここは明日なんとか……」
富森は小声でつぶやき、ふらつく原を支えてやりながら、無茶苦茶になった部屋を後にした。