◆酒嫌い〜続き
「ところで磯貝さんはどうなされたのです? 部屋にいらっしゃらなかったようですが」
「……磯貝は……どこかよそへ寝に行ったと思う。そうだ、たしか俺のベッドを使うとか」
「ほう?」
富森は事情がよくつかめなかったが、口をきくのも辛そうな原に重ねて質問することはしなかった。
……部屋の取替えっこをしたのか? 酔った上での何かの冗談だろうか? ……若い人のすることはどうもよくわからん。
富森は心の中で首をひねっていた。
……しかし参謀長室を磯貝さんが使っているとなると、このお人をどこで寝させるかだ……。
富森は足元の危なっかしい原の腕をとって歩きながら、忙しく考えていた。
医務室へ連れて行けばいいようなものだが、参謀長という重い職務を考えると、それはどうにも体裁がよくない。
ゲストルームの鍵は従兵長が持っているので今すぐには使えない。
いつでも使える場所といえば艦長休憩室だ。
そこならソファーとはいえ仮眠もできるようになっている。
そこで富森が仮眠すればいい。
原は富森のベッドに寝させるのが一番手っ取り早い。
富森はそう決めると艦長私室のドアを開け、原を中に入れた。
富森はさっきまで自分が寝ていたベッドを手早く整えた。
「さ、とりあえずここでお休みください。私は上の休憩室に参ります」
「いや、それなら私が自分の休憩室に行きます」
いえいえ、と富森はそう言う原を押しとどめた。
「ここなら洗面もバスルームも付いていますでな。ご気分が悪くなられたときに便利です」
今吐いたばかりの原はそう言われてしまうと返す言葉がない。
気分の悪い今、たしかにバスルームがあれば気が楽だ。
それに正直言って下部艦橋までのラッタルを昇る元気もない。
よろよろしたみっともない姿を衛兵に見られるのも、沽券にかかわる。
「すみません、そうします」
原は富森に頭を下げて、艦長のベッドに腰掛けた。
富森は黙って一礼すると自分の部屋を譲り渡して出て行った。
ばたん、とドアが閉まり、原は富森の部屋に一人残された。
……申し訳ない、艦長。
原は心の中で富森の気遣いに感謝していた。
……ありがたく、横にならしてもらおう。
原はベッドに横たわった。
……墨の香? それとも線香だろうか?
かすかな香のかおりが富森の私室には漂っていた。
……そもそも悪いのは長官だ。飲めない俺に酒を飲まして面白がっていた長官が。
ベッドに横たわると、大石のことが頭に浮かんだ。
いうなれば、今夜原を苦境に追い込んだ張本人。
……ひどい。あなたは俺を苦しめて楽しんでいた。
大石の仕打ちは下戸の原に酒を強いて勧めただけに収まらなかった。
大石は嫌がる原を抱き寄せて、無理やりその唇に酒を流し込むようなことまでした。
酒自体はほとんど喉元に流れてしまったが、人前でそんなマネをされるのは原には我慢ならなかった。
……あなたの腕に抱かれ、あなたの手で杯を。
原の顔がゆがむ。
ほかの人間がそんな無礼なマネをしようとしたら、原はそれこそ力を振り絞って乱闘でも何でもしただろう。
だが、大石を振り払うことはできなかった。
嫌なのに、大石に抗うことができなかった。
……残酷な人だ、長官あなたは。
酒宴の途中で自分ひとりの物思いに入り込んでしまって、ご機嫌で騒ぐ酔っ払いたちをよそに、頬杖をついてひとりグラスを傾けていた大石の沈んだ横顔を原は思い出していた。
酒はいつのまにか日本酒から長官室のスコッチに替わっていた。
酔いに耽溺した大石の目には、酔っ払い三人も苦しそうにしている原も映っていなかった。
さっきまでニヤニヤして原に酒を無理強いしていた大石が、原のことなど忘れたように舷窓を眺めている。
もちろん舷窓の外は真っ暗で何も映ってはいなかった。
酒を無理強いした無体さより、そのときの大石のまなざしの意味するものに原は打ちのめされた。
……長官、あなたはやっぱり、恋をしている……。
原の疲れきった身体はそれ以上の思考を彼に許さなかった。
原の意識は辛い思いの中をさ迷いながら深い眠りに融けていった。