◆酒嫌い〜続き


翌朝○七○○。
起床ラッパが鳴り響く。
「総員起こーーしーー」
間延びした号令がかけられ、それっとばかりに兵たちが飛び起きる。
着替える、寝具を畳む、洗面を済ます。
すべてが秒刻み、すべてが駆け足だ。
真冬のイーサフィヨルズはまだ真っ暗闇の真夜中だったが、日本武尊は朝になったのだ。
「総員体操よぉーいーー」
○七一五、拡声器から次の号令がかかる。
露天甲板へのラッタルを駆け上がる兵たちの駆け足の響きが、艦内にこだまする。
ぐっすり眠っていた磯貝も目を覚ました。
……ここは?
磯貝は手探りで灯りをつけた。
見慣れない他人の部屋の、他人のベッドだ。
……ええっと。
ぼーっとした寝起きの頭で昨晩の記憶を一生懸命手繰る。
……そうだ、参謀長の部屋だ。
磯貝はベッドの上に起き直った。


……便利でいいな、トイレつきで。ああ、でも、歯ブラシは向こうの部屋だ。
ベッドから出た磯貝は用を足すと立派な洗面所でばしゃばしゃと顔を洗った。
水滴を足元にこぼしながら、真っ白な洋タオルの真ん中で顔を拭く。
もうすぐ原の従兵が朝の整頓に来る。
そのときタオルも交換するから、遠慮は要らなかった。
タオルを首にかけたまま、磯貝は大あくびをした。
よく磨かれた鏡には寝間着姿の彼の眠そうな顔が映っていた。
……あ、着替えを持ってきていない。
軍服は自分の部屋である。
……仕方ないな、このままで帰ろう、自分の部屋に。
さいわい右舷通路は人通りも滅多にない。
専任の従兵が通るだけだ。
冷え切った通路をパタパタと急ぎ足で寝間着の磯貝は自分の私室に向かった。
通路にずらっと並んだドアには『艦隊機関長室』『艦隊主計長室』『作戦参謀室』などと書かれたプレートがつけられていて、アパートの並びめいていた。
『航空参謀室』というプレートのついた自室のドアノブに磯貝は手を掛けた。
「?!」
部屋を開けたとたん、異臭がした。
「うわーーー」
室内の惨状を見て、磯貝は呆然と立ちすくんだ。


新年が明けて二日目の朝。
すがすがしいはずのその朝は、司令部の従兵たちにとって悲惨な朝だった。
航空参謀の部屋の大掃除から一日が始まったのである。
磯貝のおろしたての軍装をはじめ、シーツに毛布、枕カバー、ベッドカバーにカーテン、きちんと畳まれた着替え一式に靴までが、昨夜の被害にあっており次々に通路に放り出されて洗濯室行きを待っていた。
オスタップ(桶)だソーフ(雑巾)だとてんてこ舞いの従兵たちに、着替えを持ってきてくれとも言えず、存在を忘れ去られた磯貝は寝間着のまま通路で情けなさそうな顔をしてぼんやり突っ立っていた。
一方、艦長私室では艦長付きの従兵が仰天していた。
いつも艦長の身支度が終わったころを見計らって私室の整頓に来るのだが、今朝はベッドにまだ人がいる。
しかもベッドの中に寝ているのは、ドジョウひげの謹直無比な富森艦長ではなく、寝乱れ姿も色っぽい美男の原参謀長なのである。
起こすべき? 見なかったことにすべき?
迷った挙句、従兵は回れ右をするとまたドアから出て行った。
――ばたん。
閉まったドアの音で原は目が覚めた。
ん……何時だ?
うっ、なんだこの頭の痛さは。
胃がむかむかする……。
しんと静まり返った艦長の部屋。
原は気分の悪いのを我慢して、ベッドから下りた。
靴はどこで脱いだか覚えてないし、ズボンはよれよれでワイシャツには汚いしみができている。
第一、異臭がしている。
原はバスルームに入って鏡を見た。
柔らかな髪はくしゃくしゃでおかしな寝癖が付いているうえに酒臭い。
青い顔はむくんで半病人のようだ。
……ああ、気分が悪い。体質的に酒は合わないんだ。とにかく部屋に帰ろう。シャワーを浴びて着替えよう。今日はずっと私室で休ませてもらおう。だいたい長官のせいなんだからな!
原はこっそりと艦長私室を出た。
こっそり、のはずであったが、あいにく右舷通路には何人もの従兵がいた。
通路には洗濯に出すシーツや毛布の山ができていた。
従兵たちは艦長の部屋から出てきた、靴も履いていないよれよれの原を驚いて見た。
「参謀長!」
まだ寝間着のままの磯貝が彼のもとへ駆け寄ってきた。
「私の部屋にいらっしゃらなかったから心配していたんですよ。なんで、艦長の部屋で?」
「話は後だ」
矢継ぎ早に話しかける磯貝に、原は怒った顔で言い捨てると足早に自分の部屋に駆け込んだ。


部屋では原の専属従兵がいつものように朝の掃除をしていた。
「風呂の用意を頼む。今すぐだ!」
原の姿にびっくりしていた従兵があわててバスルームに飛び込んだ。
「うう」
原は両手で頭を押さえると、ベッドに倒れこんだ。
頭が痛い、吐き気がする。
おまけにベッドが膏薬くさい……磯貝が背中と腰に貼っていた湿布の臭いが移ってしまっている。
「湯加減は自分で見る。着替え一式、上から下まで全部を出しといてくれ。それとシーツと枕カバーも新しいものに換えておいてくれ」
口早に言いつけると原はバスルームに入りドアを閉めた。


従兵たちよりも迷惑をこうむったのは、洗濯夫だったかもしれない。
正月早々、多量の洗濯物……シーツに毛布、軍服そろい……。
「うわあ、こりゃひどい。水洗いぐらいしてから持ってきてくださいよ」
洗濯室の床にどさりと積まれた洗濯物を見るなり、洗濯夫は悲鳴を上げた。
「艦長と参謀長と航空参謀の洗濯物だ、大至急、丁寧にな」
「お偉方がなんでこんな……こんなの特別料金でお願いしますよ」
「なんでもいいから、頼んだぞ」
せっかくの正月休みにとんでもない洗濯物を渡されて渋い顔をしている洗濯夫に、また新手の従兵が洗濯物を抱えてやってきた。
「おい、こっちも軍服上下の洗濯を頼む。航海長と砲術長と軍医長だ……臭くてすまんが」
「なんでまたいっぺんに。大仕事だよ、正月から」
洗濯夫がぼやきながら、嫌々仕事に取り掛かったころ原は――