◆損と得


おい、いままでどこに居たんだ。どれだけ探し回ったか知ってるのか。
おまえが捕まらないから、俺がおまえの書類を書き直したんだぞ。
よくもまあ、あんなばかな間違いができるもんだな。
数字の取り違えだけじゃない、それで全部計算しやがって。
自分で引用、総括しておいて、おかしいと思わなかったのか、このバカ!
おまえがあんな数字を一覧表に残しておくから、あちこちの報告書がおかしなことになってたじゃないか。
――士官食堂の入り口で、磯貝にばったりと出くわして、原は思わず磯貝に詰め寄った。
切れ長の目が鋭く光り、幾分細められて磯貝を睨みつける。
美貌であるだけに、睨んだ顔は凄みがある。
それは能面のように冷ややかで、取り付く島がないように感じられる。
そんな険しい形相で、原は磯貝に詰め寄ると頭ごなしに叱りつけた。
意識的に抑えた小さめの声であったが、原の高い声は普段からよく通る。
士官食堂にいた人間はみな素知らぬ顔で聞き耳を立てていた。


磯貝の作成した書類にミスを見つけ、雲隠れした磯貝をあちこち探し回った挙句、原は夕食直前までかかって書類を書き直していたのだ。
疲れている上に空腹で、原はいつもより数倍不機嫌だった。
磯貝は原の眉間に刻まれた縦のしわと、ただならぬ目の光に恐れをなしてすくみ上がっていた。
誰も彼も見て見ぬふりをしていたが、中将閣下に叱り飛ばされている参謀大佐という図は、なんとも士官食堂にそぐわない珍しい見物だった。
幹部たちのテーブルには白いリネンがかけられ、席に着いた士官の前に給仕の兵が手際よく皿を運んでいた。
席に着かず、磯貝を叱りつけている原を見て、給仕係の兵はふたりの分の味噌汁をいつ運んで良いものか判断に困りオロオロとしていた。


  まあまあ参謀長、食事の席だ、そのぐらいにしておけ。磯貝も座れ。
テーブルに先に着いていた大石が、鷹揚にとりなす。
今の今まで、自分が磯貝を長官室に匿っていたことは、おくびにも出さない大石だ。
大石の言葉に原は口を閉じると磯貝を解放した。
不機嫌な様子のまま席に着き、緊張した給仕係が運んできた味噌汁の椀の位置をきちんと直す。
原にすれば無意識の動作なのだが、端から見ると彼が癇癖なのがよくわかる。
  磯貝参謀、ちゃんとお食べなさい。ほら、箸を持って。
席に着いた磯貝がうなだれたままなので、富森が横から心配そうにそっと声を掛けた。
ムスッとした表情の原に遠慮しながらではあるが、富森はおとなしい磯貝を庇わずにはいられない。
富森の声にぼんやりと顔を上げた磯貝に、しっかりなさい、というように彼は目顔で励ますのだった。
  磯貝さん、あんたの好きな焼き魚じゃないか。うまいよ。
磯貝の隣に座った木島も、磯貝の肘をちょいと突付いて、箸を取るように促すのだった。
しょんぼりとした磯貝の顔を覗き込んで、彼は武骨なひげ面でニッと笑いかけた。
  なにも食事前に噛み付かなくってもなぁ。言っちゃあなんだが、パッキンだね、あの人も。
木島はついでに横の早水にそう囁きかける。
パッキンとは「石頭・わからずや」をさす海軍の符牒である。
  うんうん……。
木島に相槌を適当に打ちながら、早水はおかずを咀嚼していた。
  そうだ、うちの若い連中がね、新しいフィルムが手に入ったって言ってましたよ。どうです? 明日の午後の自由時間にでも。
ずずずっと味噌汁をひとくちすすって椀を置くと、早水は明るい調子で磯貝に向かって話しかけた。 
  なんのフィルムだ? 金髪かい?
  そういうのじゃないって、おあいにくさま……人畜無害なディズニーの新作だよ。
  ちぇっ、漫画映画か。
  俺は磯貝さんを誘ってるの、あんたじゃなく。明日、若いのが誘いにいくと思いますんで、ぜひ。
フィルムというとブルーフィルムをすぐ連想する木島をたしなめながら、早水はしょんぼりしている磯貝の気持を引き立てるべく、明るく話しかける。
木島も早水も、素直な磯貝を日頃から贔屓にしている。
磯貝にきつく当たる原には、どちらかといえば反感すら持っているほどだ。
このふたりにわいわいと陽気に話しかけられて、磯貝も気持がほぐれてきたのか、食事の終わり頃には笑顔をみせるようになっていた……。


  疲れただろう。で、仕事は終わったのか。
黙りこくったまま箸を動かしている彼の参謀長を気遣うように、大石は原にそっと話しかけた。
原は言葉少なにほぼ仕事は片付いたことを告げる。
  そうか、ご苦労だったな。
大石は原を優しくねぎらうと食卓に視線を戻した。
司令部の他の参謀たちは行儀よく押し黙って食事していた。
彼らは不機嫌そうな原を恐れて視線も合わそうとしない。
原は憮然とした様子で、ひとり黙々と箸を運ぶ。
……損な役回りだな。
大石はそんな原を見てそう思う。
磯貝の書類の不備をみつけ、今までかかって直してやったのに。
磯貝を苛める悪者みたいに扱われて、迷惑はかけられるわ、悪者にされるわで、原は踏んだり蹴ったりではないか。
……そういうことには頓着しない性質なのかな、彼は?
大石は原の横顔を横目で盗み見る。
これ見よがしに磯貝を構う日本武尊幹部たち、恐れて話しかけようとしない幕僚たち……そんな中で原は超然として食事をしている。
これも原の美質だと大石にはわかっている。
原は体面にはこだわるが、人気取りなどはまったく考えない、恬淡なあっさりとした気性だった。
必要とあらば、相手が誰であろうと容赦なく厳しい意見を口にする。
得難い人材だと感謝はしているが……。
……なぁ、それでも口の利きようとか叱る場所を選ぶとか、もうちょっと、その、考えたらどうだ? まるでわざと悪者になりたがっているみたいなところがあるぞ、原君は。