◆他人のベッド


本国に送る報告書がまだ完成しない。
各参謀が仕上げてくる文書が揃わないのだ。
とくに遅れているのは航空部門……。
担当の参謀は磯貝である。
いつも仕事の遅い磯貝ではあるが、今回は彼にも言い分があった。
今回の作戦では航空戦が主体になった。
作戦行動も多岐にわたったので、まとめるのは相当骨である。
しかも土壇場で大石が直感に従って、突発的な命令を下し現場を混乱させた。
正確には参謀たちが苦心して立てた作戦を、大石が直前になってひっくり返し、艦橋に居残っていた参謀長以下はつんぼ桟敷に置かれてしまった。
原や磯貝の知らない間に、大石のいる防空指揮所で作戦は勝手に変更されていたのである。
結果的には大石の直感が見事に当たり、味方の損害はゼロという奇跡的な勝利を収めたわけだが、あまり大きな声では言えない話だ。
少なくとも大学校の教科書に載せられる事例ではない。
原などは艦橋にいて、作戦になかった命令が出ているのを聞いて一瞬パニックを起こしかけたぐらいだ。
「臨機応変でないとな」
戦闘が終わって艦橋に帰ってきた大石はケロリとしてそう言った。
「……おめでとうございます」
腹立たしいが、原はそう言わざるを得ない。
たしかに味方の戦勝は嬉しい。
嬉しいが、苦心してお膳立てした作戦でも十分勝てたという自信が原にはある。
……そりゃ、ここまで完全に損害を出さずに勝てたかというと……。
大石の神懸り的な直感にかなうわけがない、と原は諦め顔になった。


大石の直感のツケが報告書作成の遅延となっている、という事情があるにしても、普段から何かにつけて仕事の遅いのが磯貝だ。
心配した、というより業を煮やした原は、磯貝の様子を部屋まで見にやってきた。
磯貝は机の前に座って、報告書作りに一生懸命取り組んでいた。
「進み具合はどうだ?」
原はつかつかと机のそばに来ると磯貝の手元をのぞきこんだ。
「なんとか今夜中には目鼻をつけるつもりです」
机の前の磯貝は気弱な笑顔を上司に見せた。
「うん、そうしてもらわないと困る」
「すみません、いつもご迷惑をかけて」
大きな目を申し訳なさそうに潤ませて磯貝は原を見上げた。
「……わかってるならいい」
原も別に磯貝がサボっていると思っているわけではない。
……いつも真面目に取り組んでいるんだが、トロいんだよな磯貝は。
真面目な分だけ始末が悪い、と原は思う。
「で、どこでつまっているんだ? やっぱり例の件か?」
「ええ……」
例の件とは大石の独断専行のことである。
「どう書けばいいんでしょう?」
磯貝が鉛筆を握ったまま、困り果てたような顔で原に訴えた。
「そのまま書けばいい。起こったとおりのことをな」
ずいぶんとちぐはぐな報告書になるとは思うが仕方がない。
「本当なら長官に書いてもらいたいところだがな」
原が苦い顔で笑うと舷窓のほうを見やった。
晩春のイーサの遅い夕日がようやく沈み、海は夕焼けの残照を受けてほのかな朱色に染まっていた。
「直感が閃いた……ってそのまま書かれるでしょうかねぇ」
「ふふ、どうだかなぁ。ま、そのあたりの理由付けは無理しなくていい」
舷窓から見える夕空に、軍令部の高野総長のむっつりとした顔を原は思い描いていた。
……軍令部のほうで先刻承知しているはずだ、参謀泣かせの大石流のやり方は。
出撃前、『型破りな男』と高野は大石を評して言っていた。
今にして思えば、高野はえらく控えめな表現をしたものだと原は思う。
ついでにいえば高野は磯貝のことを『航空戦術では若手随一』と褒めちぎっていた。
……こいつがか。どんくささでは間違いなく随一だな。
ちらりと磯貝の角張った頭を見下ろして原はおかしそうに口を曲げた。
高野はとんでもない上司と部下を原にあてがってくれた。
……しかも俺はそのとんでもないふたりを気に入っているんだから、世話はないな。
原は疲労のにじむ苦い笑いを口許にとどめて、徐々に夕闇に溶けていく水平線を眺めていた。


「とにかくさっさと書け。おまえが一番遅れているんだぞ」
舷窓から離れると、原はまた磯貝の机の横に戻ってきて彼をせかした。
「できたところから見せてみろ。……下書きでいい。手伝ってやるから」
最初から原は磯貝を手伝ってやるつもりで部屋に来ている。
それならそうとはじめから優しい口を利いてやればいいのに、原の性格ではそれができない。
磯貝がおずおずと差し出した下書きの束を無言で受け取り、原はそれを持って磯貝のベッドに腰を下ろした。
「……何年参謀をやってるんだ、おまえは。まったく要領の悪い! ……二度手間なんだよ、こういう書き方じゃ……」
ぶつぶつ文句をつけながら、愛用の青インクのボールペンで線を引いたり書き込みを入れたり、疲れた体に鞭打って原は手早く磯貝の下書きに手を入れていくのだった。