◆トレーニング


長官私室の床に手を突いて、ランニング一枚の大石は腕立て伏せをしていた。
ゆっくりとしたペースで腕に負荷をかけながら、彼は黙々と腕立て伏せを続ける。
次は指だけで体重を支える指立て伏せ。
逞しい腕はハードな指立て伏せをものともしない。
くっきりとした筋肉で陰影のできた大きな背中と広い肩、そしてがっしりとした太い首。
制服は完全オーダーメードだからいいようなものの、大石は既製服では到底体に合わないに違いない。
大石は規定の回数の腕立て伏せを終えると起き上がり、次は腹筋の体勢をとった。
……100……200。
次は軽く膝を立て、上体を起こすときに捻りを入れながら左右に50回ずつ行う。
らくらくと腹筋運動をこなす大石の体は50の坂を越えた男とは思えぬ締まりがあった。
もとより大柄な大石ではあるが、この筋肉質な体では体重も相当あるのだろう。
大石の吐く息と彼の体重にきしむ床の音だけがリズミカルに何分間も続いた。
一番ハードなスクワット運動に入るとさすがに大石の息も乱れる。
そして最後に薄汗を額に浮かべながら、軽い柔軟体操を行う。
これが彼の就寝前の日課のトレーニングだった。

艦内の生活はどうしても運動不足になる。
兵とは違い高級士官は気苦労はあっても肉体労働とは縁遠い。
とくに冷暖房の効いた長官室と艦橋周辺にしか用のない大石は、何か自衛策を講じないとたちまち運動不足に陥る。
健康管理の面だけでなく、外見に結構こだわる大石は自分の体がだらしなくたるむのが許せない性分であった。
私室をもらえる分隊長になってから、大石は朝晩二回のトレーニングを毎日自分に課していた。
それ以来25年、休まず続けた鍛錬のおかげで大石の体はまだ若々しさを保っていたのである。
朝晩のトレーニングで筋力維持はできても、それだけではなんとなく物足りない。
若い時分のように甲板の上をぐるぐる走るのは、司令長官となった今では沽券に係わる。
そんな大石にとってありがたいことに日本武尊の艦内には柔道場が用意されていた。
道場としては狭いスペースであったが、青畳が敷き詰められていてなかなか本格的である。
大石は暇をみて週に一度はこの道場に通っていた。
この日も大石は柔道着を肩に背負って中甲板にある道場に下りてきた。
「やあ、やってるな」
道場ではどしんどしんと地響きをたてて乱取りの真っ最中であった。
「そこぉー、たるんどるぞぉ!」
ガラガラ声が上段から響く。
柔道着をきた木島砲術長が上段に陣取っている。
彼は兵学校でも猛者として鳴り響いた講道館四段の立派な柔術家である。
大石を見て彼は軽く目礼した。
道場内では階級など関係なしだ。
「世話になるぞ」
大石も気軽く声をかけて道場の隅で手早く柔道着に着替える。
大石も一応は黒帯ではあるが、兵学校のときに取得したもので、彼にたいした技はない。
ただその腕っぷしの強さにものをいわせて暴れるだけである。
上背がある、体重はある、腕力がある、で初級者が相手だとけっして負けないが、技のある有段者が相手だと逆にその力を利用されて簡単に転がされてしまう。

――この日も若い中尉にさんざん投げ飛ばされた大石であった。
なにしろその通信士の中尉は大石よりも体格がよいうえに三段であった。
20代の有段者にいくら鍛えていても50代の大石がかなうわけもない。
最後は見事な大外刈りで派手に投げられて、大石は畳の上でしばらく目を回した。
(よろしいんですか? 長官にこんなことをして)
司令長官を投げ飛ばした中尉は上段の木島のほうをうかがった。
「遠慮するな! どんどんやれっ」
景気よく木島が怒鳴る。
「その通りだ。手加減は無用……しかし今のは効いたな……」
大石はやっとのことで身を起こすと痛みに顔をしかめた。
「ご無礼を」
「いやいいんだ、いい運動になる」
謝りかけた中尉を大石は笑って押しとどめた。
「おい、木島君。ひとつ模範演技を披露してくれんか」
さすがに投げられ続けて息が上がったのだろう、大石は木島に声をかけた。
「ははあ、今日はもう降参ですか、長官。よろしいでしょう!」
木島が上段から降りてこちらに来た。
「いいか? 中尉」
「は、お願いします」
ふたりの柔術家は向かい合い、互いに袖口を掴んでくるくると隙をうかがう。
激しい気合とともに技が炸裂する。
大石はどっかとあぐらをかいてにこにこと観戦していた。
心地よい汗が大石の額に流れていた。

その日の夕食の席では柔道場のことが話題になっていた。
「忙しい兵は無理かもしれんが、士官はけっこう暇を持て余しているんじゃないか? 酒を飲んでる暇があれば、ひと汗かくほうがよっぽど健康的だと思うぞ」
「そうですな。せっかくの施設ですからたくさんの乗組員に利用してもらいたいものです」
富森が食後の茶を飲みながら他人事のように大石に相槌を打った。
たしかに富森が道場に来ても「年寄りの……」になりかねない。
さほど大石と年は変わらないのに、どうも富森は老けてみえる。
人生を達観しているせいか、この頃はますます飄々としてすっかり好々爺然としてきた。
原は最初からこの話題に加わらない。
彼は兵学校のときから柔道が嫌いである。
(汗臭い男同士で組み合って何が面白いんだか)
大石ならともかく、木島に寝技をかけられるところを想像しただけで原は気持ちが悪くなった。
「若手の士官にこそ、せいぜい利用してほしいものだが。おい磯貝」
大石は三杯目の飯を食べていた磯貝に声をかけた。
「おまえは柔道のほうはどうだったな?」
「は?」
どうやらあまり話を聞いていなかったらしい。
「おまえ、二段を持っているのか?」
「いいえ。兵学校での初段のみで私はからっきしダメです」
磯貝は正直に答えた。
「そうか? おまえは体もごついし力もあるじゃないか」
大石が首をかしげる。
「そうですよ、その体でもったいない。からっきしなんて言ってないで一度道場においでなさい。軽く揉んであげましょう」
木島がニヤニヤして磯貝を誘う。
「はあ。でも今日は私、少し食べ過ぎましたので今から柔道は無理かと」
間の抜けた磯貝の返答に大石はくくっと笑った。
「参謀長、明日はとくに夜までかかりそうな仕事は入っていなかったな?」
「はい、ヒトフタマルマルの会合以外は今日と同じ日程です」
原がてきぱきと答える。
「うん。では明日の晩にしよう。磯貝、食べ過ぎるなよ」
「これは楽しみですなあ。磯貝さん、柔道着は私のほうで用意しておきますからね」
「はあ。よろしくお願いします」
獲物を見つけて嬉しそうなふたりに何も知らない磯貝は頭を下げた。