◆夜半の月


前原が部屋の灯りを消した。
カーテン越しの大通りの街灯の光だけが、ぼんやりとした物影を闇の中に浮かび上がらせていた。
一個の黒い影になった前原が、無言でシャツを脱いでいる。
闇夜の海で鍛えられた富森は夜目が利いた。
闇の中のおぼろな前原の横顔を見ながら、富森もベッドに腰掛けたままワイシャツの袖のボタンをはずしていた。
少し俯きかげんになった前原の横顔は、大理石の彫像のように美しかった。
そしてあらわになった滑らかな胸も腕も、若々しい力と美に溢れていた。
……綺麗すぎる。
闇の中に立つ表情を押し殺した美青年に、富森はかすかな畏怖すら憶えるのだった。
濡れたように薄闇に光る前原の瞳が、富森を捉えた。
前原は富森の肩に手をかけて、ゆっくりと彼をベッドに倒した。
そして自分も富森の上に身を重ねる。
「好きだ……」
前原は堰を切ったように、彼の耳元に囁きかける。
囁きながら、性急に富森に触れてくる。
前原の吐息が、肌に熱い。
……もう何度目になるだろう? 闇の中でこうして彼に触れられるのは?
まだ慣れることが出来ない……いきなり襲った強い刺激に富森は反射的に顔を背けた。
そんな彼の反応を上目遣いで確かめながら、前原は昂りを押さえきれずに先を急ぐ。
一刻も早く富森を手に入れたかった。
理性が追いつけない地点に、早く富森を追い込みたかった。


前原の熱い唇を受け入れることはできても、富森はいまだに男の前原に積極的に振舞えなかった。
(……正直だな、あなたって人は)
そんな彼に業を煮やして、前原は耐えるような表情でじっとしている富森に、執拗な愛撫を繰り返す。
(……それならあなたをもっと困らしてみたい)
前原の目が淫蕩な光を帯びてくる。
(……困らして……やるんだ……)


ときに無防備に剥きだしの感情をぶつけてくる前原が、富森には放っておけなかった。
むら気で身勝手な彼のメランコリーにも、わがままだ甘えだと突き放す気には到底なれなかった。
人恋しげなまなざしにほだされて、いったん彼の陥穽に嵌ってしまえば、この美貌の青年はたちまち態度を豹変させるとわかっていても……。
先刻まで、富森に慰めを求めて心細そうに彼の胸に縋っていた青年が、逆に富森を思うままに支配する。
繊細な憂い顔から想像もつかない、前原の貪欲な欲望。
相当な恋の遍歴を思わせる、彼の手馴れた行為。
恩師をずっと恋い慕う純情とは裏腹な、唇の技巧。
いったん富森を捕らえてしまうと、前原は彼を快楽の泥沼へ引きずり込む淫蕩な魔物になった。
前原が与える快楽のあまりの深さに、富森は空恐ろしくさえなる。
あの寂しげなまなざしも、自分をたぶらかすための媚態であったのかと疑いたくなる。


――綺麗な顔が自分の身体に唇を這わしている。
前原のすっきりと鼻筋の通った端麗な顔を見下ろして、富森は複雑な気分になる。
この場を逃げ出したくなるような激しい羞恥と、前原に身を任せきることへの被虐的な後ろめたい興奮。
なんにせよ、前原がかなりの場数を踏んでいることは確かだ。
不快感のかけらが富森の心の片隅にカチリ、と音をたてて転がる。
そんな放埓な私生活があったとは信じがたいが、あきらかに彼は……。
富森をもてあそぶかのような前原の愛撫は、深い愉悦をもたらしても心情的には馴染めないものがあった。
……こんなことを、どこで、誰と?
心の底に澱のように沈んでいた嫌悪や嫉妬が、不意に意識に上ってくる。
……うっ!
前原の唇がもたらす耐え難い感覚の刺激に、富森の表情が思わず歪んだ。
前原がチラリと上目遣いにそんな彼の表情を盗み見た。
その薄く笑った小悪魔のような淫蕩な目に、富森の抑えられていた感情が噴出した。


自分に覆いかぶさっていた前原の肩をぐっと掴むと、富森は彼を押しのける。
そして逆に前原を手荒くシーツの上に組み敷いた。
両肩を強い力で押さえつけられて、前原は驚いたような表情を見せた。
富森は前原の瞳を真上から真っ直ぐ見据えている。
猛々しさのない、しかし威のある静かな眼が前原の瞳を強く射抜いていた。
……私を他の遊び相手と同列に扱わないで頂きたい。
驚愕に見開いていた前原の目に淡い霧がかかり、そして彼は瞼を閉じ従順に身体の力を抜いた。
前原の両肩をベッドに押さえつけたまま、富森はゆっくりと唇を重ねていった。


ふたりを取り巻く闇は濃密さを増していき――前原は声を上げた。
ぐらりと頭が揺らぎ、長めの髪が額に散らばる。
両の手指に力がこもり、掴んだシーツを皺にしてしまう。
初めて受ける富森からの愛撫に前原は惑乱した。
(あなたがこんな……!)
感激と興奮が前原に強い快感をもたらす。
熱に浮かされたように肌を染め、前原は眉を切なげに寄せていた。
呻くような声が細く切れ切れに前原の薄く開けた唇から漏れる。
いつもの小悪魔のような淫靡な微笑とはまた違う、切なげな可憐な表情に富森はたまらずにまたその唇に強くくちづけた。
前原はそのくちづけに懸命に応えながら両腕で富森の頭を、背を、狂おしくかき撫でた……。


――夜の時が移りすぎていった。
部屋の闇にふたりの余熱がまだ濃くなまめかしく漂っている。
きまり悪げに向こうを向く富森の背に、前原は薄く汗ばんだ額をつけて満足そうに微笑む。
そして両の腕を回して愛しげに背後から富森を抱く。
錯覚でもいい。
あなたの生の感情に触れたような気がする。
素敵だった……!
もしそんなことをあなたの耳元に囁いたりしたら、あなたはひどく恥ずかしがるだろうから、今は言わないでおきます……。
前原は恋情を込めて彼の堅い首筋に唇を押し当てた。


背後から首筋に押し付けられた前原の唇の感触が、官能の残り火を妖しくかき立てる。
熱い……!
富森を惑わせ乱れさせた、その熱い感触。
まだ身体のそこかしこに残っているその感触が、うっすらと疼きだしそうな気がする。
彼の腕が、富森の巌のような堅い身体にまとわりついてくる。
しなやかに撓う前原の長い指が、富森の胸肌をつうと滑る。
心身とも疲れきった今、できればもうかまわないでほしいが、彼を邪険に振り払うことはしたくない……。
富森は目をつぶった。
タヌキ寝入りだ。
(いいですよ、べつに)
そんな富森の様子に、前原はかすかに笑って目を閉じた。
(じゃあ私も眠ったふりをします、このままあなたに抱きついて)
まだ火照る頬を富森の背につけて、彼は富森にしがみついたまま丸くなる。
――いつしか疲れたふたりは相次いで本物の眠りに堕ちていった。


夜半、前原はふと目を覚ました。
いつの間にか月が窓辺に差し掛かかり、カーテンの隙間から白々とした月の光がベッドの上に流れ込んでいた。
疲れが溜まっていたのだろう、富森はときおり軽いいびきをかいている。
寝返りを打った富森の肩に毛布をしっかりとかけてやると、前原はそっとベッドから起き上がってテーブルの水さしに手を伸ばした。
汲み置きの水に喉を潤すと、前原は窓のカーテンを音のしないように開けた。
窓の外には、かなり欠けた月が光っていた。
人の寝静まった夜更けに登る夜半の月には、何かしら秘密めいた雰囲気がある。
月の白い光を浴びながら、月が昇る前のひそやかな合歓を前原は思う。
(あなたとの関係がこれで好転すればいいんだが)
どこか遠慮がちな富森の態度が、もどかしい距離感がなんとかなれば……そう前原は願う。
月の光はベッドの上の富森にも伸びていた。
規則正しい彼の寝息に、ベッドに戻った前原はやさしく微笑む。
(おやすみなさい、富森さん)
愛着のある骨ばった背中に再び頬を寄せると前原は瞼を閉じた。
ベッドで寄り添うふたりを照らしながら、夜半の月は静かに中空へ登っていった。