◆浴衣
「ああ、入れ」
いつものように大石は気軽く答えた。
この遠慮がちなノックの音は従兵長のものだ。
「……失礼いたします」
従兵長が慣れた様子で足音を忍ばせながら長官室に入ってきた。
彼は役目柄、日に何度も長官室に出入りする。
「日本からお手紙とお荷物が届いております」
「ほう?」
大石は従兵長が抱えている包みに目をやった。
「慰問品か?」
「ご自宅からのようです」
大石は小首を傾げて油紙で包まれたそれを受け取った。
見た目より軽くやわらかい。
「どうぞ」
従兵長が用意よく大石の手元に小刀を差し出す。
「どれ……」
大石は小刀を受け取ると、固く縛られた麻紐を大雑把にプツプツと切断した。
「ああ、浴衣だな……」
ばりばりと包みを開けると薄墨色に細かい縞の涼しげな浴衣があらわれた。
頓着なく包み紙を脇に押しのけると、大石は浴衣を手に取ってみた。
浴衣からはほのかな白檀の香りがした。
留守宅の仏間の香りだ――大石は懐かしそうに微笑んだ。
「そうか、日本はもう夏だな。こっちは暑くないからピンとこないんだが」
「よいお色ですね」
「うむ、似合いそうか?」
大石は気さくな笑顔になり、浴衣を肩に当てて見せた。
「はい、よくお映りです。さっそく今夜からお召しになりますか?」
「そうだな」
鷹揚にうなずくと大石は浴衣を従兵長に手渡した。
一礼して浴衣を受け取ると、彼は手紙を載せた盆を大石に差し示した。
「お手紙が二十通ほど届いております……今、目を通されますか?」
ああ、と大石が頷くのを見て、従兵長は手紙の束を執務机の上に置き、包み紙や切られた紐を始末して部屋を出て行った。
「……ご苦労」
執務机に戻った大石は背中でそうねぎらうと、気のない様子で手紙の差出人を手早く確認していった。
儀礼的なもの、顔も思い出せない人からの慰問文――急いで返事を書く必要のない手紙ばかりだった。
……明日だ、明日。
大石は手紙をひとかためにすると机の隅に押しやった。
今日はどうも手紙を書く気分ではない。
座談は大の得意とする大石だが、書くこととなるとどうも億劫がる筆不精なのだった。
夕食が済み、大石が風呂から上がってくると、きちんと浴衣が用意してあった。
大石は私室でもワイシャツのまま過ごすことが多いので、浴衣でくつろぐのは久しぶりだった。
さらりとした手触りの浴衣の袖に、大石はさっそく手を通してみた。
久しく忘れていた着物のゆったりとした着心地の良さに大石は目を細めた。
柔らかな帯を悠然と緩めに巻くと、大石は壁にかかった鏡に半身を映して自身の姿を確かめてみた。
がっしりとした長身の大石に粋な薄墨色がよく映える。
隆とした涼やかな男振り……大石はまんざらでもなさそうにうなずいた。
こうして浴衣を着てみると、つくづく畳と縁側のある生活が懐かしくなる。
いつまでもペンキの臭いの取れない艦内ではなく、畳の上でゆっくりとくつろぎたい。
「ま、ないものねだりをしても、な……」
大石は苦笑するとベッドの上に腰を下ろしたが、やおら立ち上がって引き出しの小物入れをかき回すと、爪切りを手にしてベッドに戻った。
足の爪が少し伸びている。
いつもはきちんと足元に紙を敷いて爪が飛び散らないように気遣いをする大石だが、今日は浴衣のせいかそれが面倒に思えた。
パチン……。
ベッドの端から切った爪が床に落ちる。
なんとなく縁側から爪を切った気分になった。
目を上げると舷窓からスカパフローの緑の島々が見える。
そろそろ巡検の時間になろうというのに、まだ日の落ちない北の国。
あいかわらず、カモメがしきりに海上で鳴き交わしているのが風に乗って聞こえてくる。
……白夜の時期はいつ眠るんだろうな、鳥たちは?
カモメの声に耳を傾けながら爪を切り終わると、大石はベッドの上で思い切り伸びをして、そのままバタンと寝転がった。
暑くも寒くもないカラッとした気候は、夏といってもまことに過ごしよい。
……日本はそろそろ梅雨が明けたかな?
旭日艦隊が日本を出撃してから、来月で一年になる。
……日本がちょっと懐かしくなってきたな。
思いがけず望郷の念が湧き起こり、大石は目をつぶった。
懐かしい日本の景色を脳裏に思い浮かべる一方で、大石の頭脳はこの間から考え続けているドイツ砲台に対する奇抜な作戦を忙しく練り直すのだった。