◆浴衣〜続き


三年後の夏。
参謀事務室に白鳳からの日本の荷物が届けられた。
毎度のように、事務室内にわっと歓声が上がり仕事は一旦中断される。
今回も磯貝にはたくさんのはがきが届き、平たい小包みも一つ来ていた。
「なんだ、中身は?」
たまたま居合わせた原が磯貝のそばにふらりと寄ると、さりげなく彼の手元を覗きこむ。
「これですか? たぶん浴衣ですよ。姉が前の便で浴衣を送ると言ってきてましたから」
「ふうん……」
原は指先で紙包みを突いてみる。
なるほど畳んだ着物のような感触だ。
「毎年、私がどこに勤務していても浴衣を送ってくれるんですよ」
「ふうん、まめな姉さんだな」
「部屋のチェストには去年送ってくれた浴衣もしまってあるんですけどね」
「毎年、か」
原の視線はずっと紙包みに落ちている。
「浴衣だけは毎年縫ってあげるって姉さんが……」
磯貝はそう言いながら嬉しそうににこにこと笑み崩れる。
姉のことを口にするだけで彼は嬉しくなるのだろう。
「見たいですか?」
にこにこした笑顔で磯貝は原に尋ねた。
「ん、まあな」
気がなさそうに原は答える……これもいつものことだ。
気のない素振りは表面だけだと磯貝も知っている。
嫌なら原はぴしゃりと断る、それも取り付く島もない調子で。
こうして原から近寄ってくるときは、彼が人恋しい気分でいるときなのだ……。


磯貝の私室でふたりは紙包みを開けていた。
ガサガサと幾重にも包まれた紙を磯貝が丁寧にはがしていく。
原はそれを横から半分つまらなそうな顔をして眺めている。
「今年はどんな柄かなぁ……姉さんはいつも七月になると布地を買いに行くんですよ」
せっせと荷を解きながら、楽しげに磯貝の口許が緩んでいた。
「私と義兄さんと甥っ子の直久と……三人分の布地を選んできて、せっせと夜なべをして縫ってくれるんです……姉さんが浴衣を縫いだすと、あー夏が来たなーって気がしたもんです。で、翌朝起きたらちゃんと枕元に新しい浴衣が畳んであるんですよ。嬉しかったなぁ、毎年……」
浴衣の紺の布地が透けて見えてきた。
磯貝は薄い最後の包み紙をそっと取り除けた。
「あれれ……」
出てきた浴衣の柄は可愛らしい白うさぎだった。
白うさぎが丸い尾っぽを見せて、月夜の野原を跳ねている。
磯貝の手元を覗き込んでいた原があまりにかわいい柄に噴きだした。
「子供じゃないんだから……姉さんたら、どうしてうさぎなんか選んだんだろ?」
「まあ、そう言うな。かわいいじゃないか」
「はぁ……」
ちょっと口を尖らせながらも、磯貝は浴衣を両手で広げて全体の柄を眺めてみる。
「なかなかいいじゃないか。いいから着てみろ」
「は、では失礼して」
原の勧めにごそごそと磯貝は軍服を脱ぎにかかった。
「浴衣か……」
磯貝が服を脱いでいる間、原は送られてきた浴衣を手にとってその軽い手触りに懐かしそうにつぶやいた。
「参謀長は普段浴衣を着られないんですか?」
「俺か? 海軍に入ってからはあまり着てないな。……ほら」
原は裸になった磯貝に浴衣を手渡してやる。
礼を言って浴衣を受け取ると、磯貝は手早く袖に手を通しクルクルと帯を巻きつけた。
童顔の磯貝が浴衣を着ると、まるでやんちゃ坊主のようにみえる。
「ふふん、似合うじゃないか」
「え、そうですか……子供っぽくないですかね、この白うさぎ」
磯貝は袂(たもと)をつかんで、うさぎの柄を照れくさそうに見下ろした。
白うさぎがピョンピョン跳ねている柄は、やはりなんとも可愛らしい。
それが磯貝の童顔とよく釣り合いが取れているので、原はまた噴きだしそうになった。
「いや、気にならんな。ククク……」
原は堪え切れずに笑い出した。
「な、なんですか」
「クク……さすがはお姉さんだ、おまえに似合う柄をよくご存知だ」
「もう、褒めてくださってるんだか、笑われてるんだか」
「うらやましいんだよ、気にするな」
原は口許に拳を当てて、笑いを抑えようとしている。
「あ、もし去年のでよろしかったら、ありますよもう一枚。着てみませんか?」
言いながら磯貝はもう引き出しを開けにかかっている。
「え、いいよそんな」
「私の着古しで失礼ですが……ほら、これです。こっちはちゃんと渋い柄でしょう?」
磯貝は去年の浴衣を引っ張り出して、原の目の前に広げて見せた。
藍染めにねずみ色の地味な幾何学模様がなかなか粋だ。
原も気を惹かれた様子で浴衣を見ている。
「参謀長によく似合いそうですよ、さ、どうぞ」
「いいよ、もう」
「せっかく出したんです。着てみてくださいよ。人の浴衣姿を見てさんざん笑われたんだから」
「それもそうだな。じゃ、つきあってやるか」
軽い笑顔を浮かべたまま、原も軍服のホックに手をかけ着替えだした。


「やあ、なんか普段と感じが違って別人みたいだ……」
「そうか?」
「へぇ……」
帯をきちんと結んでこちらを向いた原の姿に、磯貝は感心したような声を上げた。
これはまた水も滴る男前ですよ、と磯貝は心の中でにっこりとつぶやく。
原は自分の容姿のことを褒められるのをあまり好まないから、磯貝もわざわざそれを口にしたりはしない。
「そうだ、せっかく着たんだし、このまま旭日湯に行きませんか? 浴衣ときたら温泉ですよ。風呂はまだでしょう?」
「まだだが、このままでか?」
磯貝の思いつきに、原は驚いたような顔をしてみせた。
磯貝は無邪気にニコニコと笑っている。
……嬉しいんだな、姉さんの浴衣が。
「よぉし、乗った」
原も明るい笑顔を返してやった。
……付き合ってやるよ。皆に浴衣を見せたいんだろ?


ペタンペタンとサンダルをつっ掛けて、原と磯貝は甲板を横切っていく。
浴衣にサンダル、手にはタオルと石鹸箱。
すっかり温泉スタイルだ。
「この格好で艦外に出るなんて、軍紀上好ましくないな。というより論外だ」
「はは、私も初めてです。でも地元の人の目に触れるわけでなし」
「だが、なんとなく気恥ずかしいぞ。兵たちの視線が痛いような」
「自意識過剰ですって、それは」
たしかにふたりに行き当たった下士官兵は、みな目を丸くして敬礼していた。
酔っ払った軍医長や行儀の悪い砲術長が、丹前姿で日本武尊の通路を徘徊することはままあったが、このふたりの浴衣姿は珍しい。
「なんでしたら、駆け足で温泉まで突っ切りますか?」
「いったい何事かと思われるぞ、俺たちがこんな格好で走ったりしちゃ」
「それもそうですね」
ふたりは軽口をたたきながら旭日湯に向かう。
真夏のイーサは日が落ちない。
もう八時を回った時刻だというのに、陽光は昼のそれと変わらず明るく甲板を照らしていた。