◆イーサの湯けむり


身を切るような凍てつく空気も、暖かな湯気に混じりあってしまえばなんと言うこともない。
露天の岩風呂に身を沈めると、富森は満足げに傍らの磯貝を振り返った。
「いい湯ですなあ……」
「はぁ、芯から温まりますね」
あごまで湯に浸かった磯貝が幸せそうに応じた。
巡検前の甲板片付けにあたるこの時間、露天風呂「日本(やまと)湯」に浸かっているのは彼らふたりだけだった。
湯に濡れた富森のひげはまさにドジョウのひげのように垂れ下がっているし、湯をかぶった磯貝の頭は短い髪がぺちゃんこになって角張った頭の形がはっきり出ている。
しかしふたりはお互い気にしていない。
のんびりと広々とした湯に手足を伸ばしてふたりは温泉を楽しんでいた。


もうもうとした湯けむりが氷河から下りてくる風に吹き払われた。
その冷やっこさに磯貝はまたトプンとあごまで湯に浸かる。
富森は目を閉じたまま微動だにしない。
磯貝が話しかければきちんと返事をしているところを見ると、眠っているわけではなさそうだ。
今も、湯けむりの向こうの脱衣所から誰かがやって来た気配があっても、富森は目を開けなかった。
磯貝だけが新顔の入浴客にぺこんと湯の中から会釈をしていた。
――ざあぁぁぁ。
新顔がさかんにかかり湯を浴びている。
――カシャン。
温泉らしく木枠の手桶でもあればいいのだが、主計科もそこまでは用意できなかったようだ。
ここでも艦と同じアルマイトの洗面器を使用しているので、どうも金属音がしてよろしくない。
――ざあぁぁ、ばしゃ。
もうもうと湯けむりをあげる湯の中に、新顔がゆっくりと身体を浸した。
ひたひたと湯面が揺れて、溢れた湯がゆったりと岩風呂の縁を伝う。
「……失礼」
湯に身体を沈めた新顔がそう富森に声を掛けた。
その低い優しい声に富森は目をむいた。
富森の一メートルほど先の湯に前原が浸かっていた。


旭日艦隊の幕僚と一緒に夕食を済ませ、大石のコーヒーをよばれて歓談したのち、前原はこの日本湯にやって来たのだった。
イーサ基地を出れば、また不自由な潜水艦暮らしである。
ここにいる間は毎日、温泉に浸かってやろうと前原は決めていたのである。
手早く脱衣所で服を脱ぐと、氷点下の気温に肌が凍りつきそうだった。
暖かな湯に向かって前原は急ぎ足になった。
湯はちょうどすいているらしい。
岩風呂にはふたつしか人影はない。
湯のそばまで来て、前原は人影のひとつが富森であることに気がついた。
富森と一緒に湯に浸かっているいかつい男がぺこっと湯の中から会釈をしてきた。
人のよさそうなその童顔に見覚えがあった。
旭日艦隊のたしか航空参謀だ。
前原もにっこりと愛想よく会釈を返し、洗面器に湯を汲む。
富森は眠っているのか、目を閉じたままだ。
懐かしい富森の身体。
富森の灰色の髪とひげ、裸の肩や胸元に目をやったまま、前原は何度も湯を浴びた。
前原の視線に気づくことなく、富森は悠然と湯に浸かっている。
人目こそあるが、このまま知らん顔しておくつもりは前原にはなかった。
前原は湯に身体を沈めると、すうっと富森に近づき声を掛けた。
「……失礼」
富森は彼の声にぎくんと目を開けた。
「いい湯ですね、富森艦長」
驚いている富森に、前原はにっこりと微笑みかけた。


前原は富森の驚きを楽しんでいた。
「これは前原司令……」
驚きを抑えると富森は辛うじて口を開いた。
「温泉があるとは羨ましい限りですね」
やさしげな声で前原がさりげなく話しかけた。
少し濁った塩泉の湯を前原は片手で掬って戯れている。
前原の硬く締まった腕と肩が、湯に濡れて光っている。
目の前の前原の肌に、富森は眩しそうに目を細めた。
「……ここは広いし湯量も多い。立派な温泉ですね」
口元にやさしげな微笑を浮かべて前原は平然と話し続ける。
しかし前原の目には、きらりと妖しい光があった。
けっして世間話をしようというだけでないことが富森にはわかる。
お知り合いなんですか? というように磯貝はふたりの顔を見比べていたが、大人しい彼は話に割り込んではこない。
彼なりに気を遣ったのか、少し離れた場所に移動して岩に凭れてボーっとしている。
そんな磯貝の様子にちらりと目をやって、前原はすっと富森との間合いを詰めてきた。
「……相変わらず風呂好きなんですね、富森さん」
悪戯っぽい光を目に宿して、前原が低い声でささやく。
危険なからかうような目だ。
富森は居心地の悪そうな顔つきになった。
「毎日というわけではありませんが、ここへくるのを楽しみにしております」
やや堅苦しい返事を生真面目な調子で返す富森に、前原は愉快そうにくすっと笑った。
……まったくあなたも変わらない。相変わらずの照れ屋だ。
「ふふ……一度あなたと一緒に風呂に入ってみたかった……十五年後にしてやっと果たせました」
「ご冗談を」
富森は前原の小悪魔的な笑みにますます顔を渋くした。
なんとも前原は油断がならない。
……そうやって私を意識してくれるのが嬉しいですよ、富森さん。
前原はそんな富森ににっこりと笑いかけた。
まったくどういう体質なのか、四十をすぎたというのに前原の肌はまだ若者のような張りとつやがある。
湯の上に出された腕や肩の筋肉のしまりも、皺やたるみのない若々しいままの顔も、どう見ても四十の男のものには見えない。
ただ、あの甘みの残ったふんわりとした美青年の印象が薄れ、大人の男の自信と苦味がその秀麗な面持ちに重みを加えていた。
開戦からこのかたずっと紺碧艦隊を率いてきた彼の労苦と成長がしのばれる。
(あれから十五年も経つのだな……)
そう改めて富森は感慨にふける。


「背中を流しましょうか、艦長」
洗い場に出て身体を洗っていた磯貝が声を掛けてきた。
「あ、いや。いいですよ」
いつもなら、磯貝の好意に甘えておくのだが、今日は前原がいる。
前原の目にいまさら裸体を晒すのはどうしても恥ずかしかった。
「よろしいんですか? じゃ、いつでもお声を掛けてくださいね」
磯貝はそう言うと今度はスポーツ刈りの頭を石鹸でガシガシ洗い出した。
「ふふ、気のいい人ですね」
前原が富森の横ににじり寄った。
肩先がかすかに触れ合った。
「あなたによく懐いているようだ」
「誤解なさらないで下さい……」
「ふふ、しませんよ。あなたはマトモ、ですからね」
前原がくすっと楽しそうに笑う。
「でも、あなたひとりだったらチャンスだったのになあ……残念ですよ」
微笑みながら富森の耳元にそんなことを前原は囁いてくる。
「ご、ご冗談を」
からかうような前原の微笑みに富森はどうにも落ち着かなかった。