◆イーサの湯けむり 〜続き
「おーい、原」
公室で文書を作成していた原が机から顔を上げた。
どうぞ、とも言わないうちから大石はずかずかと部屋に入ってきた。
「温泉に行かないか?」
「今ですか?」
……こうして仕事をしているのがわからないんですか?
原はその切れ長の涼やかな目に迷惑そうな色を浮かべた。
「ああ。そう机にかじりついていちゃ、肩が凝らんか? ひとつ温泉で息抜きをだな」
大石には仄めかし、などというものは通用しない。
気づかないのか、気づくつもりがないのか、どちらなのかはわからないが、断るときははっきり言わないと埒があかないのが大石だ。
「いえ、今日はまだ仕事が残っていますのでやめておきます」
原はしっかりと大石の目を見て断った。
「いいじゃないか、風呂に入るぐらい」
屈託のない笑顔になると、大石は机の上の書類を指で弾いた。
一度断られたぐらい、なんとも思わない図太い神経である。
「いえ、でも」
原が困ったように長いまつげをまばたきをした。
「なんだ、風呂が嫌いなのか? それとも俺と一緒なのがイヤなのか?」
原の執務机に手をついて、大石は身を乗り出して原に迫った。
「そういうわけでは」
「何度誘っても、また今度、今度と逃げるじゃないか。せっかく温泉があるんだ、たまには付き合え」
大石は強引である。
「たまには裸の付き合いもいいだろ、なあ原君!」
ばしん、と大石が原の肩をどやした。
「そうと決まればさっさと行こう。タオルを忘れるなよ」
迷惑そうに黙り込んでしまった原の沈黙を了承と受け取ったらしい。
大石は上機嫌で原を促すのだった。
別段、原は風呂嫌いというわけではない。
温泉がとくに嫌なわけでもない。
湯量がたっぷりしていて清潔なら、共同湯でも構わない。
他人の垢が浮いた不潔な湯舟に入るのは大嫌いな潔癖な原ではあるが、その点日本湯は合格である。
ただ、大石と一緒に風呂に入るのが嫌なのだ。
もっと言えば、大石の前で裸になるのが嫌なのだ。
裸の付き合い?
それが大石の言うような意味あいの付き合いなら、
……ごめんこうむりたい。
そう思う原である。
寮生活の延長のような泥臭い俺貴様の付き合いは、繊細で貴族的なところのある原の最も嫌うところである。
それがもし、もしもであるが、ごく個人的なプライベートな意味あいの裸の付き合いなら……そして、それが大石となら、
……その、よろこんで。
そんなことをちらっと考えたりする原だから、大石の前で裸になりたくないのである。
そういう方面のデリカシーに欠ける大石には想像もつかない理由だろうが。
簡易だがしっかりとした造りの脱衣所で、大石は頓着なくパッパと衣服を脱いでいく。
そんな大石の裸体を見ないように俯いて、原はちまちまとシャツのボタンを外していた。
「おっ、外はさすがに風が冷たいな。早く湯に浸からんことには、風邪をひいてしまう」
早くも素っ裸になった大石が寒風に思わず身震いをする。
「なんだ、何ぐずぐずしてるんだ」
「どうぞ、お先に行って下さい」
原の視界の隅に大石の裸の足先が映る。
それだけでドギマギしてしまう自分がなんとも腹立たしい。
原はぎゅっと目を閉じた。
「? 変なヤツだな、早く来いよ」
大石はさほど気に留めず、そのまま露天風呂のほうへ早足で急いだ。
余談ではあるが、海軍の月例検査(健康診断)は素っ裸で行う。
性病検査が主たる目的であったためだが、ついでに行う他の検診まで素っ裸のままで行ったので、なんとも恥ずかしいものだったという。
うっかり各自の受診表などで前を隠したりすると「娑婆気を出すな!」と衛生兵曹の一喝を喰らった。
「裸」については兵学校の教育も兵たちと同様であった。
新入生が大浴場に入るとき、タオルで前を隠してたりすると
「コソコソ前を隠すとは何事かーっ、貴様それでも海軍軍人かーっ!」
などと上級生に怒鳴られて、罰として全員が浴槽の周りを素っ裸で行進させられたという……。
大石が海軍精神に忠実だったのかどうか、彼は何も隠すことなく堂々と露天風呂に歩み寄った。
「おお、おまえも来てたのか」
湯舟の中に前原を見つけて、大石は立ったまま声を掛けた。
予期しない大石の出現に前原は硬直した。
「どうだ? いい湯だろう」
ニコニコと微笑みかける目の前の大石の姿に、前原の顔が見る見る赤くなっていく。
……おやおや、これは。
富森は前原の動揺したなんとも言いがたい表情を盗み見た。
前原がずっと大石に恋情を抱いていることを知っているだけに、彼の気持ちはよくわかる。
「……ええ、いい湯です……ね……」
大石に返す前原の笑顔が微妙に引きつっている。
困ったような表情が笑顔に取って代わり、とうとう前原は真顔になってしまった。
そこは男同士、前原の想いを知るだけに富森にはその理由がピンときた。
……ははぁ……その、大変ですな。
富森はそ知らぬ顔でそっと前原から離れてやる思いやりをみせた。