◆イーサの湯けむり〜続き


湯舟の中にはもうひとり、顔を赤くしている男がいた。
磯貝である。
最初は大きな目をぱちくりさせて、彼は筋骨逞しい大石に見とれていたのだが、急にもぞもぞと赤くなって俯いてしまった。
もとより大石に憧れていて、その手の傾向も無きにしも非ず、な磯貝である。
見るな、というほうが無理であろう。
俯いてしまいながらも、チラチラとまだ大石に視線を送っているのだから、若いというか困った男だ。


「艦長に……磯貝か。温泉の常連だな、はっはっは」
何がおかしいのか、大石は上機嫌で笑いながらザァザァと湯をかぶっている。
「なに隅っこに隠れているんだ? おい」
ザバン、とかなり遠慮のない入り方で湯舟に入ると、大石は磯貝のほうへ進んでいった。
V字型の逞しい上半身を湯面から出して、大石が自分の方にやってくる。
磯貝は慌てた。
「いえ、なんでも。なんでもありません!」
彼は中腰の不自然な姿勢のまま、顔だけ湯から出してバシャバシャと反対方向に逃げ出した。
(うわぁぁ、来ないでくださーい! 今はダメッ!)
こんな有様を見られたら変態だと思われてしまう……磯貝は必死で温泉の奥に逃げた。
「なんで逃げる? ……それにしても器用な逃げ方をするヤツだ」
大石は呆れて磯貝を追いかけるのをやめた。


……仕方がない。気は進まないが。
原はため息と共に下着を脱いだ。
ここで風呂に入らずに帰っては、後が面倒だ。
覚悟を決めて行くしかない。
脱衣場には何人分かの服が脱いである。
温泉に大石とふたりきりという事態は免れそうだ。
そのことにほっとしたのか、じつはがっかりしたのか、原は自分でもよくわからなかった。
正直なところ、一糸まとわぬ大石を見てみたい。
しかし、それはある種の拷問ともいえる。
密かに想う相手の裸体を目の当たりにして、そ知らぬ顔で耐えなくてはならないのだ……。
……ほかに人もいるのなら、気の紛れることもあるだろう。
原は気を引き締めるようにタオルをしっかりと握ると温泉に向かった。


湯けむりがもうもうと上がっている。
ひたひたと原は冷たい岩の上を湯に向かって進んだ。
「おおい、原。早く来い」
湯けむり越しの人影を認めて大石が呼んだ。
原はその声にパッとタオルで防衛した……兵学校なら罰を喰らう所作だ。
原は無言でそのまま湯に近づいた。
湯には向かって左から、前原、富森、大石、そして磯貝が浸かっていた。
……ちっ、前原司令もいる。
原には少々面白くない。
しかしながら、前原の目を見て軽く目礼しておく。
前原はどういうわけか、機械的に目礼を返しはしたが上の空といった様子だった。
……? 変なやつ。
少しその態度にカチンときたが、原はそれを顔には出さず洗面器に湯を汲んだ。


……くっ……こんな無様なことになるとは、不覚ッ!
前原は虚空を睨んで、こぶしを握り締めていた。
……頭を冷やすんだ! 何をうろたえている!
必死で自分を叱咤するが、大石のオールヌードが目に焼きついてしまっている。
……やはり素敵だった、さすがは長官……いや、いかん! 今は思い出してはいけない!
ともすればニヤけそうになる自分を前原は殴りつけたかった。
……これじゃ湯から出るに出られない、なんとか人に気づかれないうちにフツウにしないと。
前原が自らのアクシデントに冷や汗をかいているときに、原がやってきたのである。


一方、富森はどうしていたか。
いくら風呂好きの富森でも、こう長時間湯に浸かっていてはのぼせてしまいそうだった。
しかし前原がまだ湯に浸かっている以上、出るに出られない。
見栄か羞恥か。
いまさら前原の目を気にしても仕方なかろうと思いながらも、老いてしまった身体を見られるのはいやだった。
前原はやはり富森の中では特別な人である。
前原が湯から上がってしまってからでないと、彼は湯から出たくなかった。
少々のぼせるかもしれないが、この際我慢するか……そう富森は決心していた。


――ざぁぁぁ。
原の身体が湯に沈み、縁までいっぱいだった湯が岩肌を伝って溢れ出た。
しばらく湯はタプタプと波打ち、やがてまた静かに湯けむりを上らせる。
静かだった。
配管から流れ出る熱い湯のたてる水音だけが、湯面に響く。
湯は冷えきった原の肌をじーんと痺れさせ、徐々に暖めてくれる。
「……ふうぅ」
たしかに気持ちがいい。
原は岩に頭を乗せ、身体を伸ばして見るともなくほかの面々の様子を眺めた。
前原は深刻そうな顔つきで虚空を睨んでいる。
富森は目をつぶって身動きしない。
磯貝は奥の隅で落ち着きなくきょときょとしている。
大石は暢気そうに欠伸をしていた。
……あ、目が合った。
誰も構ってくれなくて退屈していた大石が、これ幸いと原のほうにやってくる。


毎日のトレーニングで鍛えられた大石の逞しい裸体が、原の目の前にある。
……長……官……。
ぐらり、と原の自制心が揺らぐ。
すっとそのまま大石の胸に身を投げかけてしまいたい衝動を彼は感じた。
……ばかな。俺はなにをッ。
原は大石から顔を背けた。
胸がドキドキする。
まずいことに、大石を意識して原もまた……。
……あっ! いけない!
原は思わず前かがみになった。
大石はそんな彼の様子に気づきもせず、すぐ横で湯にのびのびと手足を伸ばす。
「なあ、温泉に来てよかっただろう? たまには息抜きをせんと、な?」
にっこりと彼は原に笑いかける。
原の好きな天衣無縫な大石の笑顔だ。
「……ええ」
釣り込まれるように、原も笑顔を返す。
少しぎこちない笑顔だったが……。
「ふふ……」
原の笑顔に嬉しそうに笑うと大石は空を見上げた。
湯気にかすむ真っ暗なイーサの夜空を。