◆ズボンとタオル

――ばしゃん。
湯が跳ねた。
表面のざらざらした黒っぽい溶岩が湯を吸い取って濡れ色になった。
湯舟の中の大石が足の甲で水をすくって跳ね飛ばしたのだ。
「ははっ、やっぱり温泉に限るな」
岩にもたれかかって両手両足を伸ばし、大石は満足そうにつぶやいた。
十日過ぎの月が夜空にぽっかりと顔を出している。
月明かりを受けた湯けむりの中に、おぼろに浮かぶ人影が三つ。
イーサ泊地自慢の旭日湯に、一日の疲れを癒しに来た長官・参謀長・先任参謀の三人組である。
「イーサの月か。地球のどこから見ても月は月だな」
湯舟からしみじみと月を見上げて、大石がつぶやいた。
「でもイーサの冬の満月は沈んだかなと思ったら、一時間もしたらまた出てくるんですからヘンな具合です」
大石の言葉に、洗い場で石鹸の泡だらけになっている磯貝が異を唱えた。
「そりゃ北極に近いんだからしかたがない。太陽だって夏は出っぱなし、冬は沈みっぱなしだ」
「極端ですよね」
原も湯舟から月に目を遣った。
「だから極地という」
「はは、違いない」
和やかに談笑しながら、三人は思い思いに湯気にかすむ月を見上げた。
上空の強い気流に雲が飛ぶように流れており、たちまち月はぼんやりと夜空に滲んだ。
気まぐれなアイスランドの夜空は晴れたと思えばすぐ曇る。
風に運ばれてチラチラと小雪さえ舞ってきた。
「うーさむっ」
身体を流し終わった磯貝が急いで湯に入ったので、湯がザザァと音を立てて湯舟から溢れ出た。
湯にさえ浸かっていれば寒風もなんのその、天然温泉湯量たっぷりの旭日湯はまことに極楽である。
身体を芯から温めてくれる湯に肩まで浸かって、皆満足げに押し黙っていた。
脱衣場の明かりの反射光だけが、暗い湯面にゆらゆらと頼りなげに揺れていた。

だが、静寂は長くは続かなかった。
ばしゃん……ばしゃん……。
また大石が湯の奥で湯を蹴り上げだした。
岩肌に湯が当たる単調な音が湯気の中に響く。
原が少し嫌そうな顔をした。
さっきから湯の飛沫が彼の肩口近くに飛んできているのだ。
――ばっしゃん。
大石が大きく跳ね飛ばした湯がとうとう原の顔にまで飛んできた。
「ちょっとやめて下さい、長官」
迷惑そうに原がたしなめた。
「お、すまん」
大石は湯から出していた足を引っこめた。
が、大人しくしていたのもつかの間、今度は湯で顔をざばざばと洗いだした。
大石の周りに派手にしぶきが飛び散り、隣にいた磯貝が跳ねをかけられて困ったように目をしょぼしょぼさせていた。
まったく風呂の中でも傍若無人な長官である。
人迷惑な洗顔を終え、額に落ちかかった濡れた真っ直ぐな長髪を片手でかき上げると、大石はふうーっと大きなため息をついた。
やれやれ終わったかと磯貝もほっと息をついたところへ、当の大石がのんきに話しかけてきた。
「ケブラビークの米軍基地は温水プールを作ったらしいな」
「体育館の次は温水プールですか。すごいですねぇ」
「ま、なんというさすがにアメリカだ」
少し悔しそうに大石がくちびるを曲げた。
「うちでは無理ですよ、プールなんて」
湯舟の向こうから早速原が釘を刺しにかかった。
池に毛の生えた程度でいいから、うちでも旭日プールを作ろう! などと大石が言い出したりしたら、また司令部にひと悶着起きる。
後世といえども、旭日艦隊のふところは決して豊かではないのだ。
限られた予算の中で苦しいやり繰りをしている艦隊主計長が耳にしたら、きっと泡を吹くだろう。 
「わかってるよ。羨ましいのはやまやまだが」
わかっていると言いながら、未練たっぷりな物言いに原は苦笑した。
……長官は体力を持て余しているからなぁ。
「今度、合同会議の後で泳がせてもらったらいかがです?」
からかい半分の原の提案に
「そうだなぁ……もう長いこと泳いでないからなぁ」
まんざら冗談でもないような口ぶりで、大石は自身の肩や腕の逞しい筋肉をぴたぴたと無聊らしく叩いて見せた。
「でもこの頃レイキャビクは物騒ですよ。独軍の空襲が頻繁になってきてますからね」
横から磯貝が航空参謀らしい口をはさんだ。
「敵も潜水空母を使ってきてますし、いつ何時本格的な攻勢に出てくるか――」
まさにそう言いかけたときに、突然大音量のサイレンが警報を発した。

敵機来襲!
ざばっと三人は湯舟から立ち上がった。
脱衣所のライトが消されて、旭日湯は頼りない月の光だけになった。
不吉なサイレンの鳴り響くなか、真っ先に行動を起こしたのは大石だった。
大石は一気に湯舟を飛び出し、洗い場から真っ暗な脱衣所へと全速力で駆け出した。
「長官!」
同じく真っ裸の原と磯貝がバシャバシャと湯をかき分けて後に続く。
が、不運なことにいくらも走らないうちに、原は濡れた敷石に足を滑らしてしまった。
そして原が身体のバランスを崩したところへ、すぐ後をついて走ってきた磯貝が避けきれずに追突し――
「きゃっ」
「わわっ」
ふたりは敷石の上に折り重なって転倒した。
「くっ、何を、イタ……」
「きゅ、急に立ち止まるから」
「俺は滑ったんだ! いいから早くどいてくれ!」
真っ暗な洗い場で原は重たい磯貝の身体を押しのけようと必死にもがいていた。
いっぽう脱衣所にたどり着いた大石は、濡れた身体のまま、ズボンだけを手早くはくと、
「先に行くからな!」
とサイレンに負けない大声で言い捨てて、あっという間にふたりに構わず走り去ってしまった。
「イタタ、い、行きましょう、私たちも」
磯貝は手を突いてなんとか起き上がると、自分が突き飛ばして下敷きにした原を抱き起こそうとした。
「アッツ……!」
立とうとした原がぐらりとよろける。
「あっ、参謀長!」
あわてて磯貝が原を支えた。
「ど、どうされました!」
「足だ……右足首を挫いたらしい。立てん」
「えっ……」
絶句した磯貝につかまりながら、原は顔を上げた。
悲鳴のようなサイレンとは別の響きが空の彼方から伝わってくる。
闇の中、不気味に響く重低音は間違いなく敵機のものだ。
「いかん、もう来たか!」

「早く! 私の背中に! いいから早く!」
有無を言わさず原を背中に乗せると、磯貝は走り出した。
「これはいつもの偵察じゃありません、かなりな数だ」
脱衣所につくと、磯貝は通りすがりに脱衣籠からズボンとタオルを片手でつかみとると、背中の原に投げてよこした。
「これお願いします! しっかりつかまってて下さいよ、このままドックまで突っ走りますから!」
背中の返事も聞かずに、そのまま磯貝はまた外に飛び出した。
「……って、おまえ、裸だぞ!」
背中の上で激しくゆすぶられながら、原は思わず叫んだ。
「……あとです、服は!」
磯貝の声はさっきまでと違って力強く落ち着いていた。
どういうわけか、敵を前にすると磯貝のどもるクセは一時的にひっこんでしまう。
自分を背負ったまま、どんどん駆け出す磯貝の頑強な体力と落ち着きを頼もしく思い、原は託されたズボンとタオルをしっかりと握り締めた。

せき立てるようなサイレンの音に追われながら、磯貝は懸命に走って無事ドックにたどり着いた。
「さ、ここまで来れば一安心です」
荒く息をつきながら、磯貝は原をドック内の壁際に下ろした。
たしかに敵機の音を耳にしたのに、どういうわけか空襲はまだ始まらない。
不審に思いながらも原の手からズボンを取ると、磯貝は急いで片足を中につっこんだ。
「おい、俺のズボンは」
「すみません、参謀長はそのタオルで我慢しといてください、私は艦橋に参ります」
「俺も――」
「その足ではご無理です、後で人を寄こしますから、ここでお待ちください!」
そう言うなり磯貝は桟橋への階段を勢いよく駆けあがっていった。