◆ズボンとタオル〜続き

夜戦艦橋に駆け込むと、裸足にズボンだけで上半身を晒したままの大石が仁王立ちになって、次々と入る報告に耳を傾けていた。
オレンジ色の非常灯が大石の逞しい肌身を妖しく浮き立たせている。
息せき切って横に立った磯貝に、彼はにやりと片頬だけで笑ってみせた。
「敵はイーサに寄らず、素通りしていったぞ」
旭日湯でみせたのんきな顔とは別人のような、殺気に満ちた凄みのある眼の光に、磯貝はぞくりと身を震わせた。
「どう思う? 磯貝」
「は……」
彼が答えるより先に、電信員の報告が立て続けに飛び込んできた。
「バトナ氷河のレーダーサイトからの通信が途絶えました!」
「レイキャビク基地より入電! 海岸線レーダーが攻撃を受けています」
「機種はわかってるのか」
「長距離爆撃機のみとのことです」
「航空参謀、電神を出して確認」
「はっ! 二番湾より発進させます!」
大石の下命に磯貝は頷くと、警戒管制機である電神と護衛機の発進命令を、イーサ基地飛行隊に急ぎ伝える。
「……原はどうした」
戻ってきた磯貝にちらりと目を遣って、大石が小声で訊ねた。
「参謀長はドック内においでです、足を挫かれましたので」
「足か」
「はい」
磯貝はこくんと頷いた。
しかし今、彼の頭は対空戦闘のことでいっぱいだった。
「長官、わざわざレーダーサイトを潰したうえは、レイキャビクが主目的だとしても、このイーサを見逃すとは思えません」
「だろうな」
「超低空飛行で接近してくるはずです」
「すぐにわかる、まあ待て」
大石の落ち着いた声に、磯貝も黙って報告を待つ……。
「電神より入電! 第二波接近! 五十機、五時の方向、距離二五○!」
「対空陣地、邀撃準備よし!」
「蒼来改、上空一万メートルにて待機中」
「よし、引きつけて空雷で一気に撃破せよ!」
空雷は落下傘と赤外線探知機を備えた恐るべき誘導爆弾である。
イーサ泊地上空に迫ったアングルボザ編隊は、蒼来改が雲上から投下した空雷で次々と火の玉になり、地上からも対空砲のすさまじい弾幕を浴びて、黒煙を上げて墜ちていった。
空雷と対空砲火から辛うじて逃れて上空に脱出した機も、すべて待ち構えていた蒼来改の餌食になった。

ドックの片隅で原は寒さに震えていた。
冷えたコンクリートの上に裸のまま座り込み、鋼鉄の柱の陰に身を隠すように小さくなった原は、この上もなく情けない気持ちになっていた。
ドックの非常口近くの柱の陰。
戦闘には関係のない場所なので、あたりに人はいない。
一度、鉛管服を着た作業員がひとり、すぐ横の非常階段を駆け上がって行ったが、原はあえて声を掛けなかった。
……声なんか掛けられるか! こんな格好で!
湿ったタオル一枚、あとは素っ裸なのだ。
よく考えてみれば、こんなところに放置されるぐらいなら、危険でも湯舟に置いてけぼりにされたほうがマシだった。
風呂に裸の男がいても当たり前だが、ドックの非常口に裸の男がいたら変態である。
……俺もおとなしく背負われてないで、脱衣所でここで降ろせと言えばよかったんだ。
空襲警報に慌ててしまったことがつくづく悔やまれるが、もはや後の祭り。
迎撃の指揮を取るわけでもなし、参謀長の自分は現場に絶対必要とされるわけではない――原はちょっとすねた気持ちでそう考えた。
ズウゥン、ズウゥンと腹に響く対空砲の音と、曳光弾の甲高い飛翔音、遠雷のような空中戦の轟音がコンクリートの壁を震わせている。
そう、原がいなくともイーサ泊地は勝手に戦っている。
……イーサ泊地の防空網を構築したのはこの俺だ。あとは現場の仕事だ。
原は仏頂面で腕を組んだ。
イーサフィヨルドの斜面に対空陣地を何重にも敷き、町はずれには蒼来改まで配備してある。
……そうだ、だから湯に浸かってゆっくり花火見物と洒落こんでもよかったんだ、それを俺は。
原は凍えてかじかんだ指で、少しでも余分に腰部を隠せるようにタオルを引き伸ばした。
参謀長である自分が戦闘中に柱の陰で素っ裸のまま体育座りをして震えているなんて、情けなくて涙が出そうだった。

「どうにか終わったな」
大石は冷え切った腕を撫でながらつぶやいた。
従兵長が軍服を私室から持ってこさせたので、大石はもう裸ではなく軍服を羽織っていた。
磯貝も彼の従兵から上着と靴を受け取っていた。
「報告は部屋で聞く。皆、ご苦労だった」
歩きかけて、ふと気づいたように大石は磯貝に声をかけた。
「おい、原に迎えは出したんだろうな?」
「あっ! 忘れてた!」
やれやれ、というふうに首を振ると、大石は傍らの従兵長にあごをしゃくってみせた。
「……従兵長、よろしく頼む」
万事を心得た従兵長が、迅速かつ人目に触れぬよう配慮して参謀長を救出し、軍医長に引き渡したことはそれまでとしたい。

「あの、お加減はいかがですか」
その夜遅く、覚悟を決めた磯貝がおずおずと参謀長私室に顔を出した。
ベッドの上で不自由そうに半身を起した原は、磯貝を見て露骨に眉をしかめた。
毛布の裾からはぐるぐると包帯を巻かれた踵がのぞいている。
軍医長の下した診断は、足首の捻挫全治二週間、当分の間歩行を禁ず、であった。
「あの、怪我の具合は――」
「いいわけないだろ!」
鼻声気味の原がいらいらした様子で磯貝の言葉を遮った。
「風邪はひくわ、歩けないわ、もう散々だ!」
「は、私のせいで申し訳ありません」
深々と下げられた磯貝の四角い頭を、原は黙って見据えた。
「……俺を突き飛ばしたことは、百歩譲って不可抗力だったとしよう。だがな――」
原はそこで一息つくと、顔を上げた磯貝を正面から睨みつけた。
「――どうして俺がタオルでおまえがズボンなんだ!」
「あの、私のズボンでしたから、つい」
「ああいう場合は俺にズボンを渡して、おまえはタオルで我慢すべきだろ!」
「えーー!」
「なんだ、文句があるか」
「……いえ、次からはそういたします」
尖らしかけた口を引っこめると、磯貝は殊勝に目を伏せた。
だが、原はさらに言い募る。
「俺がどんなに情けなかったか、おまえにわかるか!」
「は、お察しいたします」
「バカ、おまえのせいだろ、痛っ」
ベッドの上で身動きした原が足首の痛みに顔をしかめた。
「あの、お休みになる前に、もう一度湿布を取り替えたほうが」
原から逃げるチャンスとばかり、磯貝は呼び鈴を押すと従兵を呼んだ。
「すまんが、参謀長の湿布の交換を頼む」
ベッド脇のスペースを従兵に譲ると、磯貝はそろそろとドアのほうに後退した。
八つ当たりモードに入ってむちゃくちゃを言いだす原に対しては、ひたすら恭順の意を示して即時撤退するのがベストである。
苦虫を噛み潰したような顔つきで、従兵に湿布交換をされている原を上目遣いで窺いながら、彼は退出のタイミングを計っていた。
こんなとき磯貝がひそかに上司の顔に、キャンキャン怒って吠える茶色の巻き毛の小型犬を重ねている……なんてことは原は知る由もない。